最も良き日の一日に』と同じ世界でのお話です。同じく、Aro / Ace スペクトラムへの言及があります。

詳細な描写はありませんが、性的関係や性的交渉への言及を含みます。

※作中人物は多様なAro / Aceスペクトラムのうちのありうる個々の例であり、考え方や振る舞いなど、Aro / Ace スペクトラムに当てはまりうるすべての人に共通するものではない旨、ご留意ください。


向かいの席に座る男が、ガラスのタンブラーを手に取る。ホテルの高層十五階、窓辺の席の陽は強く、彼のアイスグレーのスーツや露出した肌が白く光る。ふと、タンブラーを置いた左手に何かが瞬くのを認め、レオノールは言った。 「あら、結婚したの?」  男はフォークでサラダを突き刺し、含む前に答える。 「うん。このあいだ」  軽い頷きを返し、レオノールもタンブラーをつかんだ。中身はともにアイスコーヒーだ。夏の手前、そろそろ体を気にせずに氷入りのドリンクが飲める。もっとも、レオノールは年柄年中冷えたアルコールを頼むが。 「例の幼なじみ?」 「そう。まあ、僕も彼も、婚姻制度自体には大いに疑問はあるんだけど、書類の上でも繋がりを確保すべきでないかとね。無視できないメリットがあるから」 「税制とか?」 「というより、なんかあったときにさ。ケガやら病気やら。単なる友人というのと、公的書類の上で明確な結びつきがあるというのでは、扱われ方が違うから」  もう一口、サラダに載ったサーモンを頬張り、飲み下すと続ける。「僕も歳だし」  レオノールが彼——エドワードを知ってからもう五、六年が経つが、二十代の半ばに知り合って三十を超えるまでの間、少なくとも彼の容色に衰えを見たことはない。それは自分も同じで、ゆえにまだ、自身や同世代たちの老いというものを、うまく想像できない。 「あなたに鉄骨が落ちたとして、ケガをするビジョンはないけどね」 「僕をなんだと思ってんだ。まあ、死なないかもしれないけど」  来るか来ないかも分からぬものに怯えるのは、無駄な気がする。とはいえ、多少の備えをするのが堅実さというものなのだろう。  彼はサラダを食べ終えて、バゲットに手を伸ばしていた。レオノールに対し、その近況や将来の予定を訊いたりしない——だから、好きだ。

長いセフレが結婚したらしいと告げると、友人は顔を曇らせた。ややあって、口を開く。 「それは……その。なんて言ったらいいか」  表情の意味が分からずに、レオノールは尋ねる。 「なんてって、何が?」  友人は今度は訝しげにレオノールを見、そして何かにピンと来た様子で目を開いた。正直気が合わないのに、彼女と長く続いていることをレオノールは不思議に思う。学生時代には、もっと話せる連中もいたのに。 「そうだった。あなたはその、そういうのあんまり気にしないよね」 「指示語ばっかり。何が言いたいんだか」 「なんていうか、普通はさ。セフレといっても、その……肉体関係はあるのだし。多少の、そうね、ええと、つまり、約束みたいなものがあると捉えているものじゃないかと……」 「普通、ねえ。その『普通』のおかげで、こっちは迷惑しているんだけど」  要するに、彼女はこう言いたい——セフレというのは恋人やパートナーの前段階で、いずれはそういう位置につくことをみんな期待しているのでないか、と。だったら最初から恋人なり、パートナーなりになればいい。セフレというのはセックスを気軽にする相手なのであり、その目的のうえで友好を築くものだ(別に、友好についてはなくてもいいけど)。自分とエドワードは、「恋愛感情やパートナー視で互いに負担をかけない」という盟約のもと交友してきた。その盟約があってこそ、安心と信頼が生まれる。  こうした「普通」が蔓延るなかで、いわば戦友だとレオノールは思う。 「エディは最初から大事な人がいることがわかってたしね。むしろ安心してたのよ、私は」 「安心?」 「こっちにとやかく言わないでしょ? 彼はもとより言いっこないけど。ちょっと寝ただけでやれ好きだ、愛してるだと、鬱陶しい」 「でも……普通は、体を許すって、一応はハードルがあって……だからその、相性が良かったんなら、次に進めると思うのは、自然なことじゃない?」 「セックスとロマンスをセットと思い込んでいるのはあんたたちでしょ? 私じゃない。それはあんたたちの『普通』で、私からしたら気持ちが悪い」  まあ、かろうじて、ここまでは認める——自分と違う考え方の人間もいるということ。だから数度の失敗ののち、レオノールは自身の立ち位置を事前に伝えるようにしている。恋愛はなし、執着はうんざり、私とあなたが「結ばれた」二人になるなんて思わないで——承諾するくせに、あとから手のひらを返してはなぜかこちらを詰ってくる。契約不履行は向こうのほうだ。責められる謂れはない。  そこまで考えて、レオノールはふと思い至った。 「次会ったときに訊いてみるわ」 「え。なにを?」 「ひとりごと」

エドワードとのデートの日、思い至ったあることを告げると、彼は面白そうに片眉を上げた。彼は本心に近い表情をするとき、顔の片側だけが動く。 「意外だな。君が気にするとは」 「別に迷惑をかけたくはないでしょ。まあ、あなたが了承を取らないとも思えないけど」 「その通り。僕も彼も、〝そういう意味〟での執着はない。一度、彼に訊いたことがあるけど、『僕にとって重要なのは僕がいちばん大事ってことで、それ以外は気に留まらない』んだとさ」  なかなか興味深い——思いながら、キュッと冷やした白ワインを呑む。眩しい陽のなか、カフェのテラス席で白ワインとカルパッチョを頂く。こういう飲み方は、地元よりはフランスがいい。  レオノールが尋ねたのは、彼のお相手・カーティスの意向だった。つまり、婚姻関係があるうえで、自分がエドワードとデートや付き合いを続けることに不満はないかということ。そもそも相手の嫌がることを、エドワードが(たとえ完璧に隠せるとしても)すると思えないが、念のため確認しておくこともよいかと思ったのだ。他人の考え方なんて、分かるはずもないのだし。 「そ。じゃ、遠慮はいらないのね」 「うん、大丈夫。変化があればちゃんと言うし、黙って続けることはしないよ」 「向こうも貴方と同様に、関係は自由にしているの?」 「どうなんだろう? 僕は任せているけど、詳しいことは知らないな」  カーティスには一度だけ会ったことがある。自分のそれと同じくらいつややかな黒髪と、自分のそれよりずっと鮮やかな真っ青の瞳を見て、レオノールはずいぶん愉快に思ったものだった。エドワードは、二人の髪色と目の色の一致に当然触れることはなく、長い友達で、スタンスが似ているのだとレオノールを紹介した。それでレオノールは自らAロマンティックだと告げて、カーティスもまた自分は同様のスペクトラムであると答えた。  これは当て推量だが、彼の佇まいからして、どことなくセクシャルもAスペクトラムのような気がする。とはいえエドワードとは性的関係もあるようだから、デミセクシャルというところか、まあなんにせよその周辺のスペクトラムだろうと、勝手に思っている。カーティスは近い分類を告げるというタイプではなく、カテゴリを名乗らないことを重要視しているようだった。だからこれは、レオノールだけの、ゆるい認識であるに過ぎない。 「そういえば」ふと思い出し、彼に尋ねてみる。「あなたはパートナー願望のない人よね」 「うん」 「それでも、彼と結婚をするのに、抵抗はなかったの?」  すると、彼は手をとめた。ナイフとフォークを手にしたまま、少し首を傾げ気味にする。 「そうだね」やがて、口を開いた。「なんと言ったらいいか……」  すぐには答えが見つからないと踏んだのか、彼はカトラリーを動かし、白身魚のソテーを切って口に運んだ。ゆっくりと咀嚼し、飲み込んでから、もう一度話し始める。 「僕は結婚というものや、結婚によって彼の存在が僕に紐づけられることには、抵抗はある。あるけれど、それは彼に対して自分が何かしら重しになることが、彼の自由をいくらかは損なうようで気が悪いからで、当然、彼自身の思いや望みのほうが優先だ。加えて、僕は僕自身が彼に紐づけられることには、実は、そんなに抵抗はない。説明し難いんだけど、つまり僕は、彼が僕にとって、唯一の相手だと言われることは受け入れられるんだ。ずいぶん昔に諦めてるから、今更というかな。そんな心境で」 「ふうん。諦めている、というのは?」 「僕はたぶん——」おそらくは、はっきりわかっている答えの言いにくさによる躊躇を挟み、彼は言った。「彼のためになら、僕自身を簡単に捨ててしまえるだろう、ってこと」  レオノールは、また「ふうん」と頷き、カルパッチョをフォークに刺した。  なるほど。それは彼にとって、特異なことに違いない。

一日中遊んだあとホテルへ戻り、体を重ねた。先にバスルームを借り、スキンケアまですっかり済ませて寝る準備を整えると、レオノールはベッドの中で端末を開いた。現在は、バスルームから彼の浴びるシャワーの音が聞こえてくる。  SNSをぼんやりと眺める。贔屓のブランドのコレクションを眺め、いくつかに目星をつけたあと、友人知人のコミュニティを一応覗く。どうでもいい日々の投稿が並ぶタイムラインにうんざりしつつスクロールを続けていると、不意に、妙な写真がよぎった。ややギョッとし、指を止める。病室のベッドらしい。 《なんてこと……事故に遭っちゃって、全治二週間と言われました。とはいえ、たいしたケガではないからご心配なく。しばらく連絡とかつきにくいかもしれないから(別に、急ぎの用事なんかはないと思うけど)、いちおうご報告です。》  例の友人だ。詳細はわからないものの、二日前から入院中という。  ちらりとコメント欄を見る。気の毒がる者、なんかあったら言ってねと言う者、保険入ってた?と聞く者、事故の経緯もわからないのに相手がひどいと言う者、さまざまだ。しかしおそらく、この中のだれひとり見舞いにはいかないだろう。家庭がある者も多いし、そもそもそこまで仲のいい人間が、彼女にはいない。  ドアの音がした。彼がシャワーを済ませたらしい。  軽いスキンケアのあと、彼もベッドへやってくるはずだ。その逞しい腕に抱かれ、厚い胸板にもたれながら、肌触りのいいシーツの上で「スマホをいじる」のは、心地いい時間だ。つまり、——と、レオノールは思う——私はとってもご機嫌で、なにか人にしてやってもいいような気分になっている。  ロンドンへ帰ったら、やつの病室を訪ねてやろう。

朝方に出発し、昼前には駅に着いた。その場でエドワードと別れ、友人にメッセージを送る。暇だから面会に行くと告げると、涙目の絵文字とともに病院のマップが送られてきた。若干行く気が失せなくもないが、まあいい。行きがけに差し入れを買い、コーヒー片手に受付へ向かう。 「こんにちは」受付の看護師は目も上げずに言う。「ご用件は?」 「面会に。ドナ・ジョーンズはいる?」 「ドナ……」看護師は手元の機器に何やら打ち込み、「三階の北ですね。どうぞ」 「ありがと」  髪を靡かせて奥へ進み、エレベーターに乗る。途中で停まることもなく、すんなりと三階へつく。  表示に従い、目当ての大部屋を見つけた。ハイヒールを響かせながら中へ入ると、聞き覚えのある声が呼びかける。 「レオノール!」  声のするほうを覗くと、いつもの顔をほんの少しやつれさせた彼女がいた。小花柄の、なんとも垢抜けない寝巻き。右脚がギプスで固められ、ロボットのようになっている。レオノールは生成りのカーテンで区切られたスペースへ入り、見舞いの品をベッドテーブルへ置いた。 「マフィンを買ってきた。好きでしょ?」 「ええ。ほんと、ありがとう。すごく寂しかったの。話し相手は病院の人しか……」 「冴えない顔だけど、元気はありそうね。ケガの具合はどう?」 「大きな骨にヒビが入って。折れちゃいないのよ、でもしばらくはじっとしてないといけないみたい。ある程度くっついたら歩いてもよくなるから、通院に切り替わるらしい。完全にくっつくまでは一ヶ月くらい」 「なるほどね」 「もう、ほんと。間抜けでイヤになる。事故のこと投稿したでしょう? それを見てくれたんだと思うんだけど」 「ええ、そう」 「実はわたし、駐車中のトラックに自分から突っ込んだの……自転車で。それですっ転んでね。頭も打って。幸いそっちは大したことにならなかったけど、中にいたドライバーが心配して、救急車を……恥ずかしいから詳しいことを言わずにおいてたんだけど、なぜだか相手が悪いと言い出す人もいて、いよいよ言い出せなくて……」  レオノールは気持ちが顔に出るのを隠すことができなかった。もとより隠すような性分でないが。 「呆れた。事故は事故だけど……」 「でしょう? ああ、もう。情けない。そんな不注意で、二週間も入院なんて……」  ベッド下の丸椅子を引き出し、腰掛ける。紙袋のなかから彼女のぶんのコーヒーを渡してやると、ドナは感極まった様子で胸に手を当てた。 「沁みるわ」 「大げさね。砂糖とクリームは?」 「ちょうだい、ありがとう。……いい匂い」 「ここじゃ娯楽がなさそうね。電波も悪いし」 「そうなのよ。いちおう、通信機器の使用は許可されてるけど、禁じてるのと同じ」 「あなた、読書が趣味じゃなかった? 読めてない本があるんじゃない」 「……うん。でも——……」  コーヒーの残りに口をつけていたレオノールは、ドナを見ていなかった。言葉が途切れたので、怪訝に思って顔を見て、ぎょっとする。 「ちょっと、」 「ごめんなさい、」彼女は、泣いていた。「正直、参ってて——」  ドナは小さくしゃくり上げ、さめざめと泣き始めた。コーヒーのカップは持ったまま、空いた手の袖で目元を押さえ、時折鼻をすする。レオノールは、しかめっ面で身を引いて彼女をしばらく見つめたが、ゆっくりと体勢を戻し、袋の中のマフィンをつかんだ。端末を取り出すか迷ったが、それはやめておいた。 「家に——」やがて、彼女が口を開く。「本はね、いっぱいあるの。買ってはあるけれど、忙しくって読めてない本……いい機会だと私も思う。でも、急な入院で。持ってくることができなくて」 「……なるほど?」 「……つまり、誰かにお願いして、持ってきてもらうしかないのよ。そう思ったとき、わたし、わたしには、頼める人がいないってことに気づいたの。独身で恋人もいない。職場の人とはプライベートで関わらないし、友だちもみんな忙しいでしょ。親は地方にいて、高齢で、なるたけ負担をかけたくない……」  そのように考えたらひどく不安になったのだと、彼女は鼻をすすった。  要するに、ドナの不安は「パートナーがいない」ということらしい。何かあったとき、自分に手間を割いてくれる人——有事に頼る先として決まった相手がいない、ということ。彼女もかつては恋人を持っていたはずなのだが、最近は音沙汰ないようで、そういう寂しさもあるのかもしれない。 「昔の恋人は? やりとりはないの。エヴァとか、レジーナとか。いたでしょう?」 「そりゃ……やりとりくらいあるけど。元カノなのよ? もうすでに、今のお相手がいるでしょう。元カノがケガをしたから見舞いに行ってくるなんて、聞いたらお相手がどう思うか」 「そう? もうちょい歳取れば、いらぬ心配になるかもね」  言うと、ドナは少しだけ、なるほどという顔をした。 「……そうね、確かに。おばあちゃんになれば、今さら色恋ということにもならないか。単に人情というか」 「歳をとっても恋するひとはするけどね。一般に、変な勘ぐりはされづらくなるんじゃないの? 知らないけど」  レオノールは、手につかんでいたマフィンをかじった。小麦の、深くていい香りがする。 「あなたね、老後を一人で過ごすのがそら恐ろしいんだろうけど、そんなの結婚してたって条件は同じじゃないの? 結婚をしたって、いつ相手に嫌気が差すか、あるいは差されるかわかんないし、相手が死んじゃうことだってあるし、見通しなんかきかないわ。みんな」 「……そうね、……そうよね。相手がいたって、いなくたって、条件は同じ……」 「だれか一人に賭けるのじゃ、結局リスクに大差ない。入院中、あなたの見舞いに来るひとが見当たらないから心細いんでしょうけど、それはあなたの人付き合いの仕方に問題があるだけよ。私みたく、気まぐれに来てくれるひとの数を増やせばいいじゃない。恋人や何かしらがいたって、相手が大忙しだったら、どうせおんなじことになるわ」  言い終えると、レオノールはしばらくのあいだマフィンに集中することにした。途中で見かけて寄っただけだが、なかなか当たりかもしれない。  ドナは、手元のカップを見つめ、黙り込んだ。レオノールに言われたことを、じっと反芻しているらしい。レオノールがマフィンの紙をいよいよ剥がしにかかるころ、ひとつ息をつき、彼女は言った。 「不安に、なりすぎていたのかも。入院なんて初めてだし」 「まあね。急にケガをして、いろいろ心配になるのは、わかんなかないわ」 「ほんとうに? あなたそうなっても、全然平気そうな気がする」 「確かにあんまり先の心配をするタイプじゃないけどね。私だって入院なんかしたことないし、不安になると思う」  ただ、違いがあるとすれば。レオノールはだれが相手でも、気にせず連絡を取るだろう——入院していて、退屈だ、と言って。そのうちの何人かは、今日のレオノールのように気まぐれにやってくるはずだ。エドワードのように情が深ければ、わざわざ時間を作ってもくれる。  別に、なんてことはない、と思う。自分が孤独であるかどうかと、パートナーがいるかどうかは、正直、あんまり関係ない、と。せっかくのパートナーがいても他のつながりが特にないのじゃ、どのみちどこかで孤独にはなるのだ(だって、パートナーの愚痴を言える相手さえいないとしたら?)。人間の自立とは、依存先を増やすこと……と、だれかも言っていたし。 「そうよね」ドナはなんとなく、噛みしめるような口ぶりだった。「現にこうして、あなたは来てくれたし」 「ええ。そう考えると、あなたの交友関係も、捨てたものではないんじゃない」  マフィンを食べ終え、レオノールはベッド脇のティッシュで口元を拭った。ハンドバッグからリップと鏡を取り出すと、その場で塗り直す。 「鍵は?」唇を合わせて馴染ませながら、ドナに尋ねる。「取ってきてあげる」 「え、……本を? いいの?」 「ええ。ついでだもの。そう遠くないんでしょ?」 「うん、歩いて十二分くらい……」 「タクシーに乗るわ」 「そ、そうよね。待って、そしたらリストアップする」 「入院が三日前、期間が二週間ってことは、まあ、だいたい十日分ね」  ドナがあれこれ唸りをあげ十日分の本をリストアップする間(かん)、レオノールはSNSとマッチングアプリを眺め、イケてる男に「いいね」をし、面倒な男をブロックした。あらかたの作業が終わる頃ドナも候補を選びきり、メッセージに完成したリストが届く。壁際のチェストに仕舞われていたトートバッグ(くすんだ黄緑の)からドナの家の鍵を受け取ると、レオノールは長い髪を手で払い、病室を出た。

タクシーを無事に捕まえ、後部座席に落ち着いた。流れ出す車窓を眺め、レオノールはしばし、思いを馳せる。  考えても仕方ないことをくよくよ悩むタイプではないが、それでも、不安になることはある。今回のように軽い事故ならいいが、手術を伴う事態になればまた話も違ってくるだろう。たとえば、本人が意識のない状態で医療上の決断をするとき、許可や同意を代わりに出せるのはだれなのか。そういったことを思うと、エドワードの決断も分かる。  健康上のことだけでなく、人生の危機は無数にある。今まで通りには行かなくなったそのとき、だれを頼れるだろう。ドナはまだ親が健在で家族仲も良好だが、レオノールはとうの昔に実家とは縁を切っている。ドナにしたって、親は若くない。  だが、そう考えるたびに、レオノールは同じ結論に行き着く。自身がドナの病室で言ったのと、同じ結論に。  自分の生き方がほかと比べて、ひどくリスキーなわけではない。だれにとっても一寸先は闇だ。自分の人生のパートナーと定めた相手が死ぬことも、自分が死んで置いていくことも、病気や事故などの災難で、共倒れすることもある。どんな人生も、安全じゃない。  エドワードのことを思う。彼は「自分を捨ててしまえるような相手」がいる、と言った。その事実が彼にもたらす良いことも、悪いことも、彼がそれらをどう感じるのかも、レオノールには分かりっこない。仮に自分が全く同じ人生を歩んだとして、彼と全く同じように感じるはずがないのだから。  ただ、彼がそれを指して「諦め」と言った理由なら、ほんの少し、分かる気がする。彼は自分の人生の賭ける先を決めたのだ——そして受け入れた。「コイツが俺の人生だ」、と。  それぞれの人生に、それぞれの不幸と喜びと、リスクと運と、納得がある。  なら己は、己が望む生き方を選んでいくしかない。自分にとってどの人生が最も相応しく幸福か、真に判断できるのは、この世に自分ただ一人だ。

数分の旅を経て、タクシーがアパートに着いた。電子マネーで運賃を払い、車を降りる。走り去る音を聞きながら、端末を取り出してドナのリストを確認する。書名をざっと見てみたが知っている本は一冊もない。当然だ。レオノールは、雑誌以外の本を読まない。  だが、それはどうでもいい——リストを上から下まで辿り、思わず、舌打ちが出る。  もうちょっと絞りなさいよ。この量じゃ、肩に食い込むじゃない。