2022年10月に書き上げていたお話です。 Aロマンティック(Aro / Aceスペクトラム)についての言及があります。
当事者としての意識に基づいて書いた話ですが、作中人物と私自身のアイデンティティは無論完全に一致するものではなく、また、彼らはありうる形のひとつであって、すべてのAro / Aceスペクトラムを代表させたわけではありません。 割合が少ないだけで、たくさんの人がそこにいます。そういうことを踏まえて読んでいただければ幸いです。
朝の光はいつも、どこか冴えて感じられるのに、今日の陽は円みを帯びている。それはあるいは、己の心境によるものか、とアーネストは思う。兄の結婚式にいくつかの大役を任されているのに、当日の朝になってもスピーチは完成していない。滅多に使わないペンを手に小机の上へ目を落とす。 出だしはこれでいい。触れるエピソードも、どういうジョークを入れるかも大方は決まっている。だが最後、自分はどんな言葉を兄にかけたらいいだろう。親族代表のスピーチは式の後半に設けられ、言ってみれば山場だ。責任重大だ。ペンを回しかけ、いま己の手にあるものは万年筆だと思い出した。 このままではインクが乾くだけな気がして、キャップを締める。と、廊下で足音が聞こえた。足音の主——長身の彼は決して騒がしく歩く人ではないが、この小作りで素朴な式場の造りは古く、床板が軋む。 「アーニー」 戸口から声がして、アーネストはそちらを向いた。 「やあ、エディ。どうも」 「どうも。飲み物を取ってくるけど、何かいる?」白いタキシード姿の彼はそう言って庭のあるほうを指した。「いや、珍しいほどの晴天だね。式場の人が用意してくれたレモネード、もうなくなりそうだ」 「大丈夫。ここ、涼しいし」 アーネストは小部屋を見回した。不釣り合いなほど真新しいエアコンが、利きすぎなくらいだ。 「そう? 分かった。じゃ、またあとで」 一度そう言って去りかけた彼は、すぐに足を止め、ひょいと顔だけを出した。 「それ。進んでる?」 視線の先に自らの手元があると悟り、肩をすくめる。エドワードは笑い顔を向け、今度こそ庭へ歩いていった。しばらく彼の居場所を知らせていた床板も、やがて鳴りを潜める。 まだ今日、兄の顔を見ていない。兄は早くから準備をする必要があり先に家を出ていた。アーネストが起き出すと、テーブルに近所のベーカリーのバゲットサンドとコーヒーがあり、かろうじて湯気が立っていた。小さなカードには言伝——〈親愛なる弟、今日はよろしく。〉 アーネストは朝食を摂り、一時間後に家を出た。予報外れの強い日差しを浴びて、玄関の脇にある傘立てに目を向ける。昨日わざわざ倉庫から出してきていた父の遺品の傘は、どうやら出番がないようだった。車の鍵を出しながら、アーネストは兄の口癖を思い起こした。
「まったく——」 それは新品の革靴を履いて出かけようという朝のことで、兄は窓を叩く大粒の雨を見ていた。 「今日は最良の日だな」 「エディと出かけるの?」 アーネストはテーブルに論文を広げ、トーストを持ちながら訊いた。 「おい。食べるか読むかどっちかにしろ」 「悪いけど時間がないの。どこ行くの? どうせ車でしょ?」 「まあ、そうだけど」再び窓を向くと、兄の渋面がガラスに映る。「俺は事前に立てていた予定がふいになるのが嫌なんだ。あてが外れるのも」 「そんなの、好きな人いないんじゃない」 そっけなく言って、アーネストはトーストをかじった。スライスチーズを上にのせて焼いただけの代物で、兄が自分で作れる朝食はこれが限度だ。自分なら、くり抜いたパンに卵を落としてハムと一緒に焼くくらいはできるが、残念ながら朝に弱いので兄の手料理を食べる羽目になる。 普段であれば近所のベーカリーにサンドイッチを買いに行く兄だが、窓の外の様子を見るにそんな気分にはなれなかったらしい。兄がエドワードとどこへ行く予定だったか知らないが、急のどしゃ降りに不機嫌になるのは道理だろうとアーネストは思った。兄は昔から予定外が苦手だ。その上に完璧主義で、事前に準備をやりすぎる。一度など、家族旅行に際して、分刻みのスケジュールを組み立てて父母に提出し、母からやんわり却下されていた。断っておくが、当時の兄は七つだ。 降り止みそうにない雨をしばらく眺め、兄は目を伏せた。何か連絡を取ろうとしたか電話台の上のスマートフォンを拾い(兄は自分がどこに何を置いたか決して忘れることがない。上の空であちこちに置いて、置き場所をすっかり忘れるアーネストとは大違いだ)画面をタップして眉を上げた。それは純粋な驚きの仕草で、メッセージを読み込むとアーネストを振り向く。 「アーニー。今日の予定は?」 「俺? 出勤だけど」 「大学?」 「そう。講義ある日」 「じゃあ、もう出るのか」 「うん。三限だから、割とやばい」 兄はリビングの掛け時計を見て軽くのけぞる。「本当だな」 「ごちそうさま」 アーネストは席を立った。論文を雑にまとめると、隣の椅子に置いてあったリュックに突っ込み、肩に背負う。 「気をつけて行けよ。時間はまずいけど、遅刻するほうが事故になるよりいい」 「雨だしね」アーネストは頷く。「生徒は待たせておく」 兄は何か言いたげに片眉を上げたがアーネストは取り合わず、さっさと靴を履くと家を出た。ガレージを開けて車を出し、家の手前の緩くカーブした舗装路を降りようとすると、黒のBMWが来た。ドライバーは軽くクラクションを鳴らし、雨に目を細めながらサイドウインドウを下ろす。 「アーニー!」雨音に負けじと声を張る。「仕事かい?」 「そう」アーネストも細く窓を開けた。「楽しんで」 「ありがとう」エドワードは晴れやかな笑みで答えた。「君も、がんばって」 アーネストが車を走らすと、エドワードが入れ違いに家の中へと入っていく。去り際、窓辺に立った兄が、嬉しそうに彼に向かって手を振っているのが、ちらりと見えた。
エドワード・スティールバードはアーネストにとっても知らぬ仲ではなく、兄と彼とは幼馴染だった。当然、アーネストも彼のことは幼い頃から知っているが、記憶の中にある彼と今の彼とは随分違う。思春期に何かきっかけがあったか、ぶっきらぼうで言葉の足りない少年だったエドワードは、今や口から生まれた具合で完璧な笑みを振りまいている。アーネストはそうした変化の詳しい経緯を知らないが、理由があるのだ、ということは分かった。 繊細で傷つきやすい少年だった兄もまた、冷静沈着を繕うようになったが、本当は今も些細なことでいちいち一喜一憂している。その日の雨にも内心かなり落ち込んでいただろう兄を、エドワードはどういうわけかあっという間に笑顔にしたが、アーネストにはその様がいつも魔法に見えていた。自分と話すと怒るか泣くかで険しい顔をしてばかりなのに、なぜエドワードの手にかかるとこうも簡単にご機嫌になる? 分かるのは、そんな芸当ができるのは世界中で彼一人だということ。そしてその事実が、自分にとってちょっぴり悔しく、だが喜ばしいものであること。それだけだ。
気分を変えようと、アーネストは庭へ出た。森の小道の脇にあるこの穏やかな式場は、亡き母の姉の持ち物で、今日は彼女も出席する。こぢんまりとして趣味のいい庭に春の花々が溢れている。アーネストは空を見上げた。よく晴れた、柔らかな青だ。 入口のアーチの先に設けられた受付へ向かい、出席者の名簿を確認する。当初このリストは三倍はあり、兄が義理から呼ぼうとしていた人々の名前が並んでいたが、アーネストが独断でそのほとんどを削除した。修正済みの名簿を渡すとはじめ兄は顔をしかめたが、横線で消された面々を見たエドワードが賛同したので、あっさりと態度を変えた。小さくなった規模に合わせ、二人は式場を予約し直した。 兄弟の親族をよく知るエドワードは後にこっそり耳打ちしてきた。 「アーニー、君のチョイスは素晴らしい。おかげできっといい式になる」 アーネストは黙って肩をすくめた。当のエドワードはと言えば、父母さえ式に呼んでいない。彼は養子だそうだからいろいろと事情もあるのだろうが、要するに呼びたくなかったのだ。自分たちの結婚に、余計なことを言いそうなやつは。 兄だって薄々来てほしくないと思っていたはずなのに、リストに入れてしまうのだからしょうがない。律儀な兄には、たとえ自分のための式でも、誰かを除け者にするなんてことはそうそうできるものじゃない。へそ曲がりはへそ曲がりらしく役に立つのも、まあ、たまにはいい。 リストをめくっていくと、ある人物の名が目に入った。彼を呼ぶかどうかについて、兄がずいぶん悩んでいたのを思い出す。彼自体は気のいい人で、若干デリカシーには欠けるが兄の良き友人の一人だ。だから兄が直前まで招待状を手に唸っていたのは、彼を呼びたくないからではない。 「アーニー」 声がして、振り返る。純白のタキシード。 「カート」 立っていたのは、兄のカーティスだった。 「お前にしては早い到着だな。開始間際を予想していたが」 「これでも設営の手伝いくらいする気はあるんだけど」言いつつ、リストを元に戻す。「まあ、何したらいいかはわかんないけど」 「俺が来たときにはできあがってたよ。まだ来る人はないだろうが、もしせっかちがやってきたら相手を頼む」 「ええ、そんな暇ない。まだスピーチもできてないのに」 兄は大きく顔をしかめた。「マジ?」 「なんか、オチがね」 「シメと言え、せめて」 渋い顔で苦言を呈すと、兄は軽く首を傾ける。 「ま、今のは冗談だ。お前に人の相手をさせるのは賢明じゃない」 もちろん自覚はあるが、そう言われると反抗したくなる。兄だって人に偉そうに言える立場ではないはずだ。幼いころなど人見知りがすぎて、父の大事な賓客を前に泣き出したことがあったのに。 「呼んだんだね」 兄の恥ずべき過去をつつくのは止めにして、アーネストはリストを指した。具体的な名前を出したわけではないが、誰の話かは兄にも分かる。一瞬の逡巡のあと、答えを返す。 「友人だ。呼ばないわけがない」 「まあそうだよね。他に同僚も呼んでるのに、彼だけ仲間はずれにしたら気まずすぎるし」 「それもあるけど」 「たぶん大丈夫だよ」 アーネストは兄から目を逸らし、入口のゲートを見つめた。 「気にしてないと思う。切り替え、早いじゃん」 兄はしばらく黙っていた。やがて「かもな」と短く返した。
キース・リトルダンスは兄の友人で、同僚だ。エドワード、キース、そして兄は、同期の三人組として何かというとつるんでいた。キースは兄ともエディとも違うタイプだ。少なくとも、二人が備えているような繊細さは持ち合わせていない。だが兄は彼のそういうところを気に入っているようで、楽しそうに付き合っていた。全く趣味が合わないのが逆に面白かったらしい。 とはいえ、それは兄の話だ。アーネストの印象に、強く残っている出来事がある。 ガーデンパーティーの日だった。キースとエドワードのほか、職場の人間が何人もいた。大きなプロジェクトの打ち上げだったようで兄の部下が多く来ていたが、観察する限り彼らが遠慮や気遣いをしている様子はなく、みんな好きに飲み食いをしていた。肉を焼くのもサーブするのももっぱら兄だが、誰も気にしていない。 アーネストはそのとき、バルコニーと庭の段差に腰掛け、コーラを飲んでいた。酒が飲めないからだ。紙皿の上の肉は二切れで、そろそろ追加をもらってもいい。テニスコートほどの広さの庭には簡易テーブルがいくつかあって、東と西にコンロが二つずつ置かれている。キースはアーネストの斜め前にある小テーブルへ寄ってきて、ビールを注いでいるところだった。 視線の先のコンロでは、兄が肉を焼いていた。スペースがないのと、このままだと焦げると思ってか、兄は振り向いてキースに声をかけた。 「キース、野菜食ってくれ。パプリカとオニオンがある」 彼の答えはシンプルだ。「え、やだよ。そんな甘い野菜」 答えを聞いて兄は肩をすくめ、ひとまずトングでパプリカをつまみ上げるときょろきょろした。と、前方の遠いテーブルにいたエドワードが振り返り、話し相手に断ってから、こちらへ歩いてきた。 「もらうよ」 「ありがとう」兄はそのままパプリカをのせ、ついでにオニオンとズッキーニものせた。「肉も?」 すると、キースが皿を持って寄った。 「カート。肉なら俺が食うぜ」 覗き込む彼と目を合わせ、兄は「ガキかお前は」と笑う。そのときアーネストはエドワードを正面から見られる位置だった。少し逆光だったけど、表情は十分うかがえた。 ものすごく嫌そうだった。たぶん、それはやきもちじゃなかった。
ある人物を話題にしたとき、ちょうどその場に本人が現れがちな傾向は、諺になるくらい一般的なものではあるが、恐らく「偶然現れた」ショックがそんな場面ばかり記憶させている。あるいは現れそうな気配を人の無意識が感じ取り、知らず知らず話題に出しているのか。 なんにせよ兄と彼について話をした数分後、キース・リトルダンスは開式前の会場にそわそわと現れ、いつもと違いかっちりと着たスーツの首をさすっていた。 「キース」 目に留まってしまい、やむなく声をかける。 「アーニー!」 キースの顔がぱっと明るんだ。ほっとしたように駆け寄ってくる。 「もう来てたか! 他の人は?」 「いくらなんでも早すぎ。三時間も前なんだけど」 「遅れちゃならねえと思ったら早くついちまって」キースはまだほとんど無人の庭を見回す。「何時に始まるっけ?」 「十一時。それにしても早いね。珍しくない?」 すると彼は大げさにため息をつき、コメディアン顔負けの身振り手振りをし始める。コメディアン顔負け、と言ったが、アメリカ育ちのデフォルトはどうやらこうであるようだ。いやデフォルトは言い過ぎか。少なくとも、稀というわけじゃない——アーネストが自身の同僚の何人かを思い浮かべるうちに、キースは話を始めている。 「聞いてくれよ」直前のジェスチャーの時点でこう言うだろうと予想はついた。「お前も言う通りもちろん俺は遅刻しがちな人間だ。時間にルーズなんだ、わかるだろ? 一つ一つのルーティンが、予定からずれちまうわけだ。結果としてその集まりが三十分とか一時間とか、電車に遅れるともっとになる」 「まあね」アーネストは気のない相槌を打つ。 「俺はそれをわかっている。だから今回は気合を入れた。親友二人の門出だ! いや、どっか行くってわけじゃないけどな。万が一にも遅れまいと、全てのルーティンを五分前、十分前に済ませることにした。するとどうなる?」 「予定時刻の三時間も前に着くことになる」 「そういうこと」 「極端なんじゃない? 調節したら」 「そんなことができるなら普段から遅れてねえよ」 珍しく理にかなったことを言うなとアーネストは頷き、それから付け足した。 「二人に会う?」 「そうだな……」 キースは迷うそぶりを見せ、やがて大きくかぶりを振る。 「いや、やめておく。いろいろ忙しいだろ?」 「そう思うならもう少しまともな時間に来たらどう」 「しつこいぞ! それが無理だった話は今さっきしたばかりだろ」 「別に。早くこっちについても、駅前で時間を潰すとかやりようはあると思うけど」 はたとキースは固まった。ややあって、顎に手を置く。 「なるほど」 冗談だろうかと勘繰ったがどうやら本気だ。呆れていたら、「やっぱりアーニーは頭がいいな」などと返してくる。力が抜けるのを感じつつ、とにかく、とアーネストは言った。 「どこで過ごしたらいいか、スタッフさんに聞いて。俺は俺でやることあるし、あんま構ってあげらんないよ」 「つれねえなあ。わかったよ。今朝はカートに会ったか?」 「さっき」 「どうだった?」 「どうって」 「つまり——」 言いかけてキースは止まり、目を逸らし、また戻した。 「その……似合ってたか?」 アーネストはしばし考え、なるほど、と思った。 「さあ? 俺にはわかんない。直接見るまでのお楽しみ」 アーネストの返答に、キースはこくりと頷いた。やっぱり、ずっとそわそわしていた。
キースは兄が好きだった。つまりカーティスに恋していた。実質的にフラれた今も、たぶん変わらず好きだろう。本人曰く「別に好みのタイプってえわけじゃなかった」らしいが、「それでも一目惚れだったから、人生わかんねえなあ」だそうだ。 キースは一応、同僚でもあるし、すぐに友人にもなったので、しばらくのあいだ告白をしてくることはなかったが、あの通りの人だ。言われるまでもない。色恋沙汰に聡くない兄ですらすぐわかったから、傍から見れば一目瞭然、もちろん、エドワードも知っていた。だがキースはキースなりに張り合う気持ちがあったのか、自分の恋の相談を彼にすることはなかったらしい。 兄はキースの好意について、どう思っていたのだろう。 兄には恋愛感情がよくわからない。より詳しく言えば、友愛や親愛と、恋愛の区別をつける必要があるか疑問だ——これは本人の談で、誰かに惹かれる思いというのが、そう簡単にどれか一つに分類できるとも思えない、と言う。アーネストはある夏、確かセカンダリースクールの頃、避暑に来ていた別荘で兄と交わした会話を覚えている。 兄は張り出し窓に腰掛け、手元にじっと目を落としていた。白い陽射しが兄を照らし、彼の向こうに見える木々の葉もきらきらと揺れていた。 薄桃色の封筒には、ハートのシールがあった。 「ラブレター?」 からかうつもりで声をかけると、はっとしたように兄は顔を上げた。それから、何か呑み込みづらいものでも引っ掛かっているように、眉根を寄せて言った。 「ああ。休み前に渡されて」 「かわいい子?」 「かわいいよ」 兄は再び目を落とした。答えた声は、弾んではなかった。 「うれしくないの? かわいいんでしょ。ってか、なんで兄貴がモテんの」 同じ顔なのに、と口を尖らすと、兄はうつむいたままでつぶやく。 「アーニーは、告白されたらうれしい?」 「なに?」 「こういうの。もらったら、うれしい?」 嫌味かよ、と返そうとして、なんとなく押し戻す。代わりに、兄の自分とよく似た、だがもう少し品がいい気のする顔をじっと見つめて、やがて目を逸らした。 「知らない。もらったことないし」 兄はおもむろに、意外そうに、また顔を上げた。それから、ふっと頬をゆるめた。
当時はまだセクシャリティもざっくりとした区分しかなく、兄は自分にしっくりくるものを探し出せていなかった。とはいえ、今も兄は具体的に何かを名乗りはしていない。名付けたり、どこかに属したり、しないままでも平気になったと言っていた。むしろそのほうがしっくりくる、と。 「俺は俺だということだ。そこに名前がなくてもいい」 アーネストにそう言ったとき、兄はどこか照れたように笑い、アーネストに目をやって続けた。 「俺はな、実は、お前に感謝してるよ」 「は? なんで。思い当たる節はいくらでもあるけど」 「ああ、そうかい」 兄は顔をしかめ、しかしすぐにまた笑みを見せる。 「お前の真似ができる気はしないが、お前に倣ってみようと思った。参考になったよ——」 そして急に、唇を結んだ。前を向き、うつむいて、しばらくしてからまた口を開く。 「違うな。救われたんだ、たぶん。こういうことは誤魔化すべきじゃない」 どっちでもいいよ、とアーネストは思った。けれども、それは言わなかった。
兄が何を指していたのか、確証はもちろんないが、それこそ思い当たる節はある。これも十代の頃だったか——いや、成人し、アーネストが研究者として生活できるようになり始めた頃だ。 いわゆる有名人でなくても、業界の中で名前が出るようになると、口さがないことを言う者も出てくる。昔からアーネストはそういったものに取り合わなかった。心底どうでもよかったのだ。 だが繊細で気にしいの兄は、それが信じられなかったらしい。 「アーネスト」 何を見たのやら、リビングで一息ついていたところに兄は話しかけてきた。 「つらくないか?」 「は?」 アーネストは常と同じように返事をして振り向いた。兄はソファの背に立っていた。 「その——お前の言動や態度に、ケチをつけるやつがたくさんいるだろ。でも昔から、お前は自分を変えようとはしなかった」慌てたように付け足す。「いや、変えるべきだと思ってるんじゃない。ただ、どうして流されずにいられるのか、それが不思議で……」 「それって」 アーネストはうんざりした顔で兄を見、兄は少したじろいだ。そのことにもややうんざりして返す。 「俺が〝男らしくない〟とか、その手の話?」 はっきり肯定はしないものの、否定もされなかった。アーネストはため息をつく。 己の話し方や振る舞いに、あれこれ言いたがる者は幼い頃からずっといた。物心ついた頃には、もう友人から揶揄いを受けた記憶がある。そんな歳の人間にさえ『男性観』が形成されていたことを思うとぞっとするが、なんにせよアーネストにはそれら全てが無意味だった。むしろなぜ、他の人間がいちいち気に留めるのかがわからない。強がりでも負けん気でもなく、アーネストにとってそれらの言葉は気にする価値のないものだった。だから、自然と無視していた。 「ふつうにムカつくけど。相手しなくてよくない?」 「それはもちろんそうだ」兄はこめかみを掻く。「でも、気にしちゃうもんじゃないか? 変だと思われたくないとか、どうしたら言われないかなとか……」 「別に。誰がどう言おうと、それで俺の性別が突然変わったりしないでしょ。ってか、」 アーネストは急に面倒になってテレビのほうを向いた。刺々しい声になる。 「俺のこといちばんよく知ってるのは、俺だから。俺がどんなやつか、なんで他人の見解のほうが正解になんの? 意味分かんない」 苛立ちがあった。兄の情緒的な面が、アーネストにはいつももどかしい。最初は慮ろうとしても、そのうち我慢できなくなって嫌な態度をとってしまう。何度とない繰り返しだった。兄の反応も予想がつく。 案の定、兄の返事はなかった。そのまま離れていったのがわかった。 アーネストの態度に傷ついたか、腹を立てたからだろうと、当時は思っていた。そしてアーネストは毎度のごとく、ちょっぴり胸を痛め、同時に、同じくらい腹が立つような気持ちにもなって拗ねていた。だが今思えば違ったかもしれない——兄はただ、納得して、疑問が解消されたから席を離れただけだったのかも。 兄も兄でそういうところがある。顔はともかく中身についてあまりに似てると言われたくないが、こういう面では兄弟だなと思わなくもない。実際、指摘されたこともある。自分のことも、兄のことも、誰よりもよく知る人に。
「アーニー」 屋内へ戻ると声をかけられた。エドワードは手をひらひらと振り、それから手招きしてみせる。 彼は待合室のソファに座っていた。円形の小部屋に入り、彼の隣へ腰を下ろす。頭上に並ぶ窓の外は葉叢で、眩しすぎる太陽を塞いでいた。 「キースが来たんだって?」 人づてに聞いたような口ぶりだが、実際は見てたんじゃないかとアーネストは思った。どうせ隠してもバレるので思い切り訝しんでいると、わざとらしいと思ったのか、彼は笑う。 「なんだい、その顔。俺が助けに行かなかったから拗ねてるの?」 「子供扱いしないで。だいたい二歳しか違わないくせに」 「君はいつでももうちょっと幼く見えるからね」彼は言い、いつものくせで言葉足らずを避けるように付け足す。「五歳の時も、二十五歳の時も……」 「俺が生後、精神的に成長してないってのはよく分かった」 「ほら拗ねた。変わんないね」 喉を鳴らす横顔に、あなたはずいぶん変わったね、と返そうとしてアーネストはやめた。そして内心で言い返す。俺だってけっこう大人になったと思うけど。このように。 「兄貴には会った?」 「ついさっき。君は?」 「会った。いつもと変わんないね」 「そう? ああでも、そうかもね」 意外に思って顔を見ると、向こうもこちらを向いた。やはり付け加える。 「あの子はいつも綺麗だ」 エドワードも恋をしない人だ。もしかすると、兄よりもはっきり。 そしてそれについてセクシャリティを名乗らないのも同じだった。ただ彼の場合、パンセクシャルだとは自ら言うことがたまにある。セックスをするモチベーションはある(そしてその対象を少なくとも性別では限らない)けれど、恋というものは別にしない。するとしてゼロに近い頻度、ゼロに近い濃度なわけだ。はっきり問うのも違う気がして尋ねたことはないのだが、兄に向けているものもおそらく恋とは違うのだろう。 「キースはそわそわしてた」兄への言及がこそばゆく、話を逸らす。 「だろうね。僕らより緊張しそう」 「兄貴にタキシード、似合ってたかって聞くから、見てのお楽しみって言った」 エドワードは頷く。 「惚れ直すんじゃない?」 アーネストは少しぎょっとした。思わず顔に出そうになり、慌てて下を向く。エドワードはたまに、どういうつもりか掴めないようなことを言う。わざとなのかそうでないのかは、周りの反応を見たあとの彼の反応を見ればいい——アーネストは彼の横顔をうかがい、眉根を寄せた。 「変なこと言ったかい?」 「変なことだと思われるって分かってるのに言ったんでしょ」 「うーん、鋭い。まあその通り」 「来ないほうがよかった?」 「まさか。そこまで嫌いなわけじゃない」 「じゃ、ある程度は嫌いなんだ」 「今更じゃないか」彼はアーネストが座るのと反対側に置いていたペットボトルを手に取った。「知ってたろ?」 それについては、そうかもしれない。アーネストは両手をソファについた。 「でも、珍しいよね。前から思ってたけど」 「うん?」 「エディって普段から、あんまり人に興味ないでしょ」 「ええ? 心外だな。そんな薄情に見える?」 「薄情と思ったことはない」自分の靴の先を見る。「その反対だと、いつも思ってる」 エドワードは黙った。アーネストは身をかがめ、靴の先に付いていた芝生の切れ端を取った。その間、彼は開けたペットボトルの水を飲んでいたが、やけに長いことかかり、もしかしてこのまま飲み干す気かとアーネストはちらと疑った。さすがにそんなことはなく途中で飲むのをやめたけれど、満杯に近かった水は半分以下に減っている。 「誰かを嫌いになったりするほど、他人に干渉しないってこと。そういうものとして流すっていうか、自分のほうで対処するじゃん、いつも」 「まあね」彼はようやっと口を開く。「期待するの、好きじゃないから」 「期待?」 「他人に何かしてほしいって思うことだよ。こう動いてほしいとか、こうであってほしいとか」ためらいののち、続ける。「とても身勝手な気がして」 アーネストが考えていると、エドワードはキャップを閉めた。じゃあまたあとで、と立ち去る背を、アーネストは黙って見送る。
かつてエドワードが、日付も変わろうという深夜、家を訪ねてきたことがあった。チャイムに驚いて目を覚まし、兄と二人でインターフォンのモニターを見てまた驚いた。エドワードは仕事帰りのようにスーツを着込んだままだったが、そもそもこんな深い時間に平気でチャイムを鳴らす人じゃなかった。兄は泡を食って外へ出た。 「どうしたの?」兄の声が聞こえる。エドワードの返事は、聞き取れなかった。 「とにかく上がって」 兄は言い、リビングへ戻ってきた。アーネストは少し迷って、隣室の作業部屋で論文を読むことにした。 リビングと引き戸で隔てた個室は兄弟の共有で、そのときそのときで使いたい人間が使う書斎のようなものだ。プライベートな書斎は個人部屋と寝室を兼ねていたが、たまに広いスペースにあれこれものを広げたい場合に、互いに借りる。アーネストはリビングの机に置きっぱなしのタブレットを拾い、二人が戻ってくる前にさっと隠れた。自分がいるとできない話もあるだろうと思ったのだが、かと言って気にかかる。途切れ途切れに聞こえるくらいがちょうどいい。 エドワードの声は格段に低く、戸を閉めた隣室ではほとんど聞き取れなかったが、大まかな状況は分かった。家に帰ろうとすると、最寄りの駅へ向かう途中に同僚が待ち伏せていた。その時点でぎょっとしたが、そこで手紙とともに告白をされたのだという。 エドワードは断ったようだが、読んでもくれないのか、と言われた。 「泣くんだよね」その声はアーネストにも聞こえた。「気持ちだけでも受け取ってほしい。私じゃだめですか、ってさ」 消耗している。そんな気配だった。彼には珍しいことだから、アーネストは理由を考えた。 恋をしない人間が自分に恋をされるとき、その「恋をする者」というのは、どういう存在なのだろう。どんな気持ちかはよく分からないけど、とにかく自分に強い思いを向けているらしい人。何かを期待して、それを打ち明けてくる人。打ち明けてこない場合はさておき、困る、というのが実情かもしれない。 いや、困るだけならいい。怖いかもしれない。あるいは、苦しいかも。 よく告白をする際に「当たって砕けろ」なんて言うが、自分の意志でぶつかってきて砕ける側はいいとして、無遠慮に当たってこられたほうの気持ちを思いやる人は少ない。その後の関係が気まずいし、逆恨みが怖くもなる。断る理由にセクシャリティが関係している場合には、言うか言わないかの判断を迫られ、どちらを選んでも負担がある。単純に気持ちに応えられない罪悪感を抱くこともあろうし、なんならそこを詰る人もいる。恋をする者同士ならお互い様かもしれないが、しない人間にしてみたら、それはずいぶん一方的だ。 考えている間にも、憤る兄の声は聞こえた。兄は怒るとき滑舌がいい。そんなふうにまくし立てていてよく噛まないなと感心する。その兄が理路整然と彼女を責める言葉の大半をアーネストは忘れたが、ひと言だけ、耳に残っている。 「なんでそんなことできるんだろう。恋をする人って、そんなに偉い?」 確かにな、と思ったのだ。なぜ「恋」をする人間は、相手に我慢や不利益を強いても許されているのだろう。なぜ「恋」だけがそのように特権を認められていて、「多少のことは仕方がない」と見逃されているのだろうか? 言ってみれば、ただのわがままなのに?
「恋」について思いを馳せるとき、ここ二、三ヶ月のアーネストの脳裏に浮かぶのは大学の事務員の彼女だ。アーネストは彼女について、まず『フィリア』という名前なこと、常にガムを噛んでいること、髪を真っピンクに染めていて(生え際に地毛を見たことがないため、ひどく頻繁に美容院に行くか自ら染めているらしい)、職員の制服のボタンを必ず二個は開けていること。これくらいの知識しかない。 「ハイ」彼女はアーネストの知る限り常にオレンジのガムを噛んでいる。匂いでわかるのだ。 「ハイ」アーネストも同様に返し、諸々の事務書類を渡す。 「ああ、これね」 彼女は片手で受け取り、そして毎回アーネストの署名についてひと言添えた。「かわいい字」 「そりゃどうも」 これを含めてアーネストは三種類ほどの返事しかしない。例外なく皮肉混じりだ。 こうした短いやり取りの間、アーネストはなんとなく心拍が上がり、声が上ずりかけ、やたらと彼女に目がいく自分を意識する。そして受領印をもらって帰るとき、例えば近所のコインランドリーでばったり会ったりしないかと思う。彼女の私服は、もちろん勝手な想像だが、大体イメージができる。きっとタイトな作りで、全体に黒っぽく、あるいはデニムが多いだろう。デザインは、タンクトップとかクロップドとか。ショートパンツも多そうだ。とても似合うだろうし、でも見惚れてると変なふうにとられる気もする、しかし露骨に目を逸らしても、絵に描いたような「慣れてないヤツ」だ。まあ、それは事実で、取り繕ってもみっともないだけだが、からかわれたら恥ずかしい。どう対応したらいいだろう。 取り越し苦労だ。実際には、まずアーネスト自身が滅多にコインランドリーに出向かない。たまたま家の洗濯機が故障した一時期に何度か訪れたことはあるが、当然家の近くであって大学周辺の店じゃない。この取り止めもない空想が実現する確率は、天文学的な数値になる。 一方でアーネストは、こんな乏しい情報でもって自分が感情を向けていることに疑問を覚えもする。奇妙じゃないか? そもそも自分は彼女の何に心惹かれているのだろう。性格も、趣味も、考え方も、ごくわずかな接触から想像する以上のことは何も知らずにいるというのに。容姿? そうだろう。雰囲気? それもそう—— あれこれと思いを巡らせた結果、アーネストは「たいした理由はない」と結論づけた。率直に言えば「なんとなく」だと。でも、それじゃあ「恋」ってなんだ。ただの生理的反応か? それもやっぱりしっくりこない。自分は彼女に惹かれているが、必ずしも性的なことを望んでばかりいるでもない。そりゃあ、相手にしてくれるなら、やぶさかではないけれど。では、寂しいから? 一人ではなくて、一緒に生きる誰かが欲しい? これも自身に関して言えば別に当てはまらなかった。アーネストは結婚や、他の形でのパートナーシップを欲していない。別に自分たちの関係に「恋人」と名が付いてもいいが、かと言って人生を共有したいというのではない。恋愛関係にある相手としては一対一がいいのだが、別に自分たちが「ひと組」になりたいわけではないのだ……そう。独立した一人と一人として、恋愛ができたら、それがいちばん嬉しい。 ある日、世間話の一環でこんなことを同僚に話すと——話したと言っても『フィリア』の件は抜きにしてだ。当然だが——日本文学研究者の彼はしたり顔で腕を組んでみせた。そうして大学のカフェテリアのちゃちな椅子に背をもたれて言うには、 「日本語じゃ『恋』というんだが、これは『乞う』から来てるんだそうでね。『乞う』というのはね、wantに近いけど、単に『欲しい』のとは違う、もっと切実というのかな。まるで相手に跪き必死に祈るみたいなんだ。見上げて、そちらへ手を伸ばすような」 「ふうん」アーネストはアイスティーを吸った。サトウキビ製の白いストロー。 「僕はこれ、いいなと思ってね。『恋』ってそういうものじゃない? 具体的に手に入れたいとか、そういうのとは少し違う。もちろんそう強く思うこともあるけど、それって『恋』の本質ではないんじゃないかと思うんだよ。『恋』って、自分にないものを、見上げるような気持ちかも。どうか僕の近くで微笑んでくれないかってさ——アーニー、どう思う?」 特に返事は浮かばない。そうかもね、と返すに留めた。 なんにせよ「恋」というやつは、相手のことをまるで知らずにできる程度のものであるから、なにも大層な話じゃない。知らないアルバムをジャケ買いしたくなる時と同じだ。聴いてみたらイメージと違ってがっかりしてしまうこともあれば、興味のなかったジャンルでも結構いいじゃんと思ったり、首を傾げつつ繰り返し聴くうち良さにハマっていくこともある。その先に愛着や感動が生まれもするし、それはそれで良い経験だが、要するに、それだけの話だ。 アルバムは別に、勝手に覗かれて、勝手にがっかりされたって平気だ。勝手に欲しがられ、勝手に手が届かないと恨みを向けられても構うまい。てんで見当違いの期待を向けられても嫌ではあるまいし、買えないからと泣かれたって心が痛むこともないだろう——だがそれが、人であったらどうだ? 恋をするのは悪いことじゃない。でも恋する気持ちとおんなじに、恋をしない人の気持ちも大事にされていいはずだ。誰にでも好きに恋をしたっていいのだと、アーネストは言えない。相手に負わせるかも知れないさまざまなものを前にして、押し通すほどの価値なんか「恋」にはない。たかが、恋なんだから。
エドワードはキースが嫌いだ。仰る通り分かっていた。でもそれは誤解に基づくものだとアーネストは思っている。 エドワードは「恋」にまつわるものが一から十まで好きじゃない。おまけに彼は「そういうこと」にとても巻き込まれやすかった。容姿? そうだろう。雰囲気? そうだろう。言動? 振る舞い? それもそう。彼の持ち物を評していいのは彼一人だけのはずなのに、その前提はよく無視される。彼が「セックスはする人」なのも勝手な言いように拍車をかけた。気ままにヤリたいだけだとか。大勢とセックスしたいから、とか。遊び人、プレイボーイ、女泣かせ。彼が恋愛を「提示」したことなど、一度だってなかったのに。 「恋をする人(ロマンティック)」の大半は、「恋をしない」ということがほとんど全く理解できない。恋に興味がないと言っても額面通りに受け取らず、強がりだとか、出会いがないだとか、あるいは〝薄情〟なのだとか、自分に理解ができるように好き放題に歪めてしまう。結局、こう思いたいだけだ——かわいそうに。恋が〝できない〟なんて。 辟易するのは理解できる。「恋をする人」を、良いふうには見られないのも。 だがアーネストが思うには、キースは「そういう人」じゃない。露骨なくらい兄に惚れていて、好意を隠す気配はなくて、だというのに想い人のために心を砕くこともなくて、いい印象が持てない理由はいくらでも思いつくけれど。もしキースが兄のことを踏み躙るような「恋」をしていたら、兄だって不快に思ったはずだ。だが兄は、時に困りはしても、不思議とキースの恋情に苦しんでいる様子はなかった。冗談まじりの告白を冗談まじりに断って、一緒に笑っていることもあった。キースの恋は、たぶん、兄を傷つけていなかった。 それは、なぜだろう?
式の一時間前になり、ぽつぽつと人も増えてきた。キースもようやく話し相手を見つけたようで語らっている。 アーネストはまだ進まないスピーチ原稿に悩まされつつ、先に電報のチェックに移った。遠方ゆえに来られなかった親族の一部から、祝福の言葉が届いている。若干、誤解や思い込みをしていると取れる内容もあったが、弾くほどではないかもしれない。保留するように脇に退けつつめくっていくと、ふと、知らない名前があった。 誰だろう。二人の同僚か? だが電報を送るのであれば、ここへ来ていない者だということ。 嫌な予感がした。心を落ち着けながら、努めて慎重に電報を開いた。中にはほんの短い言葉が打たれていた。 〈ご結婚おめでとうございます。人を好きにならないって、私には言ったくせに。〉 アーネストはそれをじっと見つめた。そして片手で丸めて、遠いゴミ箱へ投げた。 戸外へ続く出入口の手前にそのゴミ箱はあり、アーネストのシュートを弾いた。そしてその場面を、庭で同僚たちと話していた誰かが見ていた。そいつは断りを入れ、アーネストのほうへ歩いてくる。入口をくぐるとゴミを拾った。「ゴールに嫌われたな」 「何しに来たの」 「んなこと言うなよ。何してんの?」 キースが覗くようにするので、アーネストは机を手で隠す。 「電報のチェック。うざいこと書いてくるやついたらヤでしょ」 「なるほどな。お兄ちゃん想いだねえ」 「黙って」 「これはアーネスト・チェックに引っかかったのか?」笑いながらキースはゴミを開いた。 アーネストはキースの顔を見た。その顔は、笑い顔から、ゆっくりと険しくなっていく。 「バカか」 やがて、ひと言が漏れた。 「知ってる人?」 「知ってるけど……なんかショックだな。こんな陰険なことするやつだとは」 「キースは思わないの?」アーネストは尋ねた。「こんな電報は送らないにしても」 するとキースは眉をひそめた。不快というより分からない顔だ。 「なんで? どういうこと?」 「だから……」 すでに訊く意味が無かったことに気づいたが、アーネストは言った。 「キースだって兄貴に、恋人とかは分からないって振られたんじゃないの? でも、エディと結婚したし」 「ああ——」 キースは頷き、手の中のゴミをはじめより激しく丸めて、捨てた。 「俺はカートが嘘をついたとは思わねえよ。俺の好きと、カートの好きは違うんだろ。カートは俺とは友達でいたかったし、エディとは、友達だけど、それだけじゃないなんかがあって、それも俺のとはちょっと違うんだ」 耳のあたりを掻き、考えながら続ける。 「自分の人生を預けるなら、カートはエディがよかったし……カートが自分の気持ちとか、エディとどういう風にいたいか考えて、なんだ、いちばんしっくりくるのが、結婚なんだろ? じゃあ、それでいいじゃん。そりゃちょびっと悔しくはあるけど、好きな人が幸せだってのはいちばんいいぜ。お前はそうじゃねえの?」 「どうだろ」アーネストは肩をすくめた。「俺だったら超悔しいかも。あんま素直に喜べなさそう」 「んだよ。ちっちぇえなあ」 「そうだね。君はでかいね」 「だろ?」キースは楽しげに笑う。 「心のちっちぇえのが、いちばんダサえよ。なあ?」 キースは踵を返しながら手を振り、アーネストはそれに小さく返した。駆け足に仲間の輪へ戻るキースを見つめ、急ぐ必要あるのかと思ったが、すぐに自分の仕事へ戻る。 次の電報は白地のカードに、金の箔で花が捺されていた。手に取ったときから、そうじゃないかと思っていた。だがそんなわけがないという気持ちが、アーネストに差出人を少し疑わせた。果たして封を開けると、想定通りの名前がある。緊張する。彼女の送ってきた言葉を、息を吐き、ゆっくりと眺める。 読み終えてアーネストは、堪えるように唇を噛んだ。頬杖をつき、目を細め、そのメッセージを何度も読んだ。
折りしもひと月前、兄はいまのアーネストと同じように丸テーブルにつき、いくつものカードを広げていた。夏の長い日が少し傾いた夕刻、ディナータイムが近いとは思えないほど明るい窓辺。そこは普段は読書に使われるスペースで、一人掛けの肘掛け椅子は、顔を上げればテレビモニターが視界に入る位置にある。 アーネストはそこでフットボールを観ようとコーラを片手にやってきて、兄を認めた。 「なにしてんの?」 「うん?」 気のない返事がかえり、ややあって兄は顔を上げた。兄は肘掛けに頬杖をついたままだった。 「ああ……招待状。どうしようかと」 アーネストは眉をひそめた。招待する客についてはちょっとしたやりとりのあと、片付いたはずじゃなかったか? 仕方なくローテーブルにコーラを置いて、兄へ近寄る。 テーブルを見ると、大半のカードは名前が書かれていなかった。ただ広がっているカードの多くはデザインが異なっている。また兄の凝り性が出て、招待状のデザインを数パターン用意したらしい。それで誰に何を当てるかという問題が生じたのだ。アーネストは合点し、そしてあきれた。 「なんで自分から決めなきゃならないことを増やすの?」 「え?」 「これ。誰になに送るかってことでしょ?」 兄はアーネストを見上げ、目をまんまるにしていた。そして、何か打ち消すように手を振る。 「違うよ。それもまあ、悩みの種だけど」 そこでアーネストはようやく、兄の手に一通の招待状があることに気づいた。視線を落とすと、彼に程近いテーブルの端にもう一通、カードがある。どちらにも名前があった。テーブルに載っているほうの宛先は、キース・リトルダンス。 そして手にある名前について、アーネストは言及しあぐねた。 「キース、呼ばないの?」 「どうしようかな」兄の目は依然手元のそれに注がれている。「呼ばないわけにもな」 「平気じゃない? だいぶ鈍感だし」 すると兄はちらっと目を上げて、笑い含みに返した。「それが理由?」 「だってそうでしょ。兄貴にフラれたとか、それで他のヤツと結婚するのかとか、しかも相手がエドワードだとか、別に気にしない気がするけど」 アーネストは白紙のカードを退け、空いたスペースに腰掛けた。兄はまた手元に目を戻し、低く唸った。 「そうだろうか」 「まあ、さすがにまったく複雑じゃないってことはないだろうけど」 「来てほしいよ、そりゃ。友人だし」兄は頬杖を突き直す。「でも、どの口でって思わない?」 「そんなこと思うような人?」 「分からないんだよ俺には。キースが実際どう思うか、想像するのも難しい」 アーネストはようやっと察した。つまり兄には、キースが兄に向ける想いがよく分からないから——それが成就しないことや、目指していたかもしれない「形」が別の誰かと達成されることに、キースがどういう思いを抱くかも、同じくらいよく分からないのだ。とはいえ、少なからずキースを知り、恋心についても知っているアーネストとしては、取り越し苦労に思えた。友人を自負していながら結婚式に呼ばれないほうが、よほど彼にはつらいだろう。いや、つらいというより寂しいのか。 「本当に来たくなかったらノーって書いてくるでしょ。ひとまず送りなよ」 「でも……」まだ兄は歯切れが悪い。「祝い事の席に招待されて、それを断るというのは、負担じゃないか? そういう選択を迫ること自体、思いやりがないんじゃないかと……」 キースはあんたじゃないんだよ、と喉まで出かかった。だが兄に彼の想像力の限界を突きつけるのはやめ、代わりにアーネストは言う。 「バーベキュー覚えてる?」 「バーベキュー?」 「兄貴んとこの部署の人呼んで、うちの庭でやったことあるでしょ」 「ああ」兄は頷いた。「それが?」 「あのとき、兄貴がさ。肉焼いてて」 「お前は全く手伝わなかったな」 「パプリカとオニオンを誰も取りに来なくて、誰かに食べてもらおうとした」 「ああ……エディが引き取ってくれて」 「そう。でもその前に、兄貴、キースに頼んだじゃん」 兄は手にあったカードを置いた。思案するように目を回す。 「そうだな」 「キースは『やだ』って言ったんだよ。甘い野菜は食べたくないって」 「そうだった。そうそう」兄は笑った。「ガキみたいな理由だな」 「だからさ。キースはそうなんだよ」 アーネストはキース宛の招待状を引き寄せた。青で草花の描かれたカード。 「やりたいもやりたくないも、気楽に言える人なの。きっとね」 兄とキースとは違う。キースは大事な誰かのために自分を曲げることもなければ、無理をしたりすることもない。たとえ想い人の望みだとしても、自分の意に沿わないならば彼は迷いなく断るだろう。そして、それは逆も然り。自分の想いや自分の願いが相手に断られたって、彼はきっと、何も気にしない。だって違う人間なのだ。考え、在り方、意思、そのすべて、自分とは違っていたって当たり前だ。 「みんな好き勝手生きてんだよ。それでいちいち、相手に悪いと思ったり、自分のせいだと思ったりするのって、むしろ、傲慢なんじゃない?」 兄は黙って考えた。やがて口を開く。 「それは乱暴じゃないか?」 「なにが」 「いや、その、理論構築が。確かにな、バーベキューで野菜を断る程度のことならそうだろうけど、結婚式でもおんなじようにできるというのは、拡大解釈じゃない?」 そうかなあ。 アーネストには自分の意見が正しいという自信があったが、兄の懸念も分からないではない。それに、勝手な責任感と自負心の塊のような兄には感覚しづらいのだろう。自分がすることで、相手がどう思うかということに本来自分の責任はない——加害行為はもちろん別だが——だって、相手の「自由」だもの。 「呼びたくないなら、呼ばなきゃいいし」アーネストはテーブルから降りた。「呼びたいんなら、呼んだらいいじゃん」 兄は険しい顔を作って、半端な頷きを返した。ソファへ戻りながら、もう一通のカードには触れられなかったなと思う。テレビをつけてコーラを手に取ると、水滴でコップが滑りかけ、アーネストは少し慌てた。試合はハーフタイムで、応援チームが一点、負けていた。
結局、兄はキースを招いたが、もう一人——彼女については呼ぶことを諦めたようだ。あるいは招待はしたものの、向こうが断ってきたのかもしれない。どちらにせよ兄は彼女が来ないことに少なからず安堵したはずだ。一方で、どうしても分かり合えない哀しみを、苦く思いもしただろう。 彼女というのは、姉だった。アメリア・シザーフィールドはシザーフィールド家の第一子で、兄の六歳上、アーネストの八歳上の姉だ。現在はイタリアに移住し、五歳上の夫と結婚している。封建的で家父長制的な考え方を持つ姉が夫の姓にしなかったのは、結婚の前年に死んだ両親のことがあったかもしれない。その頃には、姉は弟たちが彼女の望むような結婚をすることを諦め、せめて自分が家の名前を残そうと思ったのだろうか。 姉弟の両親が進歩的であったのに対し、姉は両親が戸惑うほどに旧体制的だった。彼女には純粋に、社交界と貴族的暮らしが性に合っていたのだ。現代の人間らしく薄い信仰を持つのみだった家族と、熱心なカトリック信者の彼女はしばしば相容れず、衝突し、それでも互いに深く愛していた。とはいえそれは常に危うさの下にある関係だった。姉は、自らの信じることを疑うことを知らなかった。 両親は娘にも、もちろん息子たちにも自由な意思と考えを認めた。だがその尊重としての不干渉は、姉から家族に対しては適用されることがなかった。姉には家族の「神の意思に反する」特徴が看過できなかった。特に、恋愛と結婚について、すぐ下の弟の立場が姉には理解できなかった。大きなものも、小さなものも、少なからぬ口論をアーネストは聞いたことがある。 アーネスト自身はといえば、最初から無視をしていた。家族として愛していないわけではないが姉と自分とは違う。アーネストが取り合わないので、姉もそのうち自分の思う正しさを説くことをやめた。兄がそうできなかったのは、兄の性格に依るところもあるだろう。とはいえそれが兄の責任の所在を意味するわけではない。兄が心に受けた苦痛が、兄のせいになるわけでもない。 理性として、または知識として、兄は姉の言うことに正当性はないと分かっていた。それでも愛する姉にとって、己が「異常」で、「罪悪」があって、「今すぐ神に跪いてその罪の赦しを得なければならない」存在であることが、彼を引き裂かないはずはない。悪いことには、姉はそれこそ、全くの「愛」から主張していた。姉もまた、心から愛する弟が自らの世界において悪であることに傷ついていた。自分の大切な弟が、神にとって「善きひと」でないなど姉には堪え難いことだった。 互いの苦しみと痛みの終わり——ある種の絶縁はいつ起きたか。推測するに、やはり両親の死がきっかけになったのだろう。父母の葬儀が終わり、姉が恋人に付いて海を渡る直前、姉と兄とが長い電話をしていたことを覚えている。アーネストは兄が自分を気遣わないで済むように、二階の書斎へ引きこもって研究をしていた。そしていいかげん喉が渇き、様子を見がてら階下に紅茶を淹れに赴いた。 いつも通りの足取りで階段を降り、リビングへ向かうと、アーネストが入る刹那に兄は電話を切ったようだった。直前、兄のスマートフォンから金切り声がしていたが、兄はそれを振り切るように通話を絶って、ソファへ座った。隣の座面に端末を放る。うつむいた兄の頭とうなじを、アーネストは見つめた。 「紅茶淹れるけど」 尋ねると、そのままの姿勢で答える。 「俺の分はいい。ありがとう」 アーネストは頷き、キッチンへ入って、電気ポットで湯を沸かした。一分弱でお湯は沸き、アーネストは普段使いの赤いマグにティーバッグを入れた。二分半。淹れ終わるまでの間、アーネストは背後を見なかった。つまり、ダイニングの向こうのソファに座っている、兄のことを。 部屋へ戻りぎわ、アーネストは、立ち止まってソファを見遣った。兄がそれに気づいている様子はなかった。ただ兄は、ゆっくりと深く頭を抱えた。その頭がまた、ゆっくりと沈み、やがて背もたれの向こうへ消えた。アーネストは足早に去った。二階へ上がると、兄の嗚咽が耳に届いてくる前に、部屋のドアを閉めた。