非常階段を駆け下りる。ヒールがトタンを打ち、甲高く鳴って、夜の静寂を掻き乱すようだ。長い前髪が、涙に濡れた目に、嗚咽する口に入り込み、それを振り払う煩わしさに目眩がする。何一つ、思うようにいかない。 アスファルトを足早に歩く。アイメイクは、きっとぐずぐずに流れ、酷い顔になっているだろう。今日に限ってウォータープルーフを使わなかった。泣く羽目になる日、私はたいていウォータープルーフを使い忘れる。こっちのほうがダマにならない、こっちのほうが繊細に仕上がる——そんなことより泣かされた時にせめてメイクを保つほうが大事だ。そういう羽目にならないと、そのことを思い出せない。 路地の先に中通りが見える。速度を落とさず突っ切る。 通りへ出た途端、タバコの匂いがした。 思わず、目を向ける。視界が滲んでいる。路地を出てすぐの建物の外階段に、誰か座っていて、その背に白っぽいものが見えた。数回のまばたきで、だんだん視界がクリアになる。だから、衝撃は、遅れてやってきた。 天使? 金髪の青年だった。大柄な体躯に白のタンクトップ、色の浅いボーイデニム。ヴィンテージなのかところどころ、擦れやほつれ、毛羽立ちが見え、それがまた彼に似合っている。滲んだ視界に見えていた白っぽいものは、羽だった——見るからに作り物の。目を凝らすと、タンクトップに同化したバンドがかろうじて見え、彼がその羽飾りを背負っていることが窺えた。きれいなひと。でも、——機嫌が悪い。 今にも舌打ちしそうな顔でタバコに火をつけていた彼は、ようやく私に気づく。 「何」と、言った途端、彼の目元の険が削がれた。 「……べつに」きまり悪く私は言った。今の自分を見たらどう思うか、想像はつく。 「なんかあった?」 案の定彼は言い、居住まいを正した。投げ出されていた長い脚が畳まれ、びっくりするほど大きく見えたスニーカーも、少し遠のく。 「それ、プラダね」と私は言った。「あなたが履いてる靴」 「ああ、」彼は足へと目を落とし、すぐに戻した。「よく知らない」 「知らない、って……もらいものなの?」 「いや。履かされてる。このクソッタレの羽も」 とうとう舌打ちが響いた。なるほど、彼の不機嫌の原因はやっぱりその羽らしい。意に染まぬ格好のようだが、いったいどうしてそんな扮装をする羽目になったのだろう。 「雑誌」と、彼は言った。「何のアレか、よく知らないけど」 腑に落ちた。こんな人、そうそう市井にいるはずがない。撮影の途中に抜け出して、ここでタバコを吸っている——私は目元を拭った。が、微かに色が移っただけだ。 彼はそれを見ていた。そして、おもむろに立ち上がり、カンカンと数段を下りる。 「ティッシュは?」つけたばかりのタバコを捨てて、彼は言う。「濡れてるやつ」 ウエットティッシュのことだろうか。私は頷き、バッグを探る。見つけ出して振り向くと、目に映ったのは顎だった。驚いて見上げる。彼の背は、私の十五センチは上だ。今日のヒールは六センチあるのに。 彼は無言に受け取って中から二、三枚出した。ケースを返すとティッシュを畳み、私の顔へ屈んでくる。直前、いいか?と尋ねるように、首を傾げた。私は頷く。 彼は私の顎に手を添え、目元を拭った。思いのほか丁寧な手つきで。 一分にも満たない時間。彼は私のぐちゃぐちゃのアイメイクを拭い終えると、汚れたティッシュを丸め、ポケットにしまった。温もりが離れる——ざらついた肌、太い指——ティッシュ越しにも、温かい手だった。 「受け取る」私は彼に向かって手を差し出した。「バッグにしまっておく」 「いいよ」彼は応える。「大して邪魔じゃない」 「でも、湿ってる。濡れるでしょ」 するとしばらく、彼は考えた。ほとんど変化のない顔の眉だけをわずかにしかめ、熟考したのちポケットに手をやる。でも私には渡さずに、階段を見上げ、振りかぶった。白いかたまりは弧を描き、ドアの手前の踊り場へ落ちる。 「この街の人間か?」それを見届け、尋ねてきた。 初めて言葉を交わした時から、彼の硬質なアクセントには気がついていた。それが海を跨いだ先の島国のものであることも。私は一瞬、考慮して、すぐに答える。 「どうかな。外から来たのは同じ。でも、そうね、この街に住んでて、この街を知ってる」 「案内してくれ。時間はある」 時計も見ずに彼は言った。肩のバンドに指をかけ、煩わしげに外す。邪魔そうな羽を階段へ放ると、また私を見る。「いいだろ?」 どうしようか。迷ったはずなのに、口は動いていた。「ええ」 言ってから、驚いた。常にない自分の素直さに。彼はたぶん、私を気遣って、こんな提案をしてくれたのだ。観光をしたいタイプには見えない——普段の私なら、哀れまれてたまるものかと虚勢を張っていただろう。それがなぜ?——もしかすると彼の言い振りが一因だったかもしれない。まるでメイクを拭った礼に、無料(ただ)でガイドをすべきだと横暴を言っているような。あるいは、確定済みの未来を、そうと知っていて告げているような。とにかく彼の言葉には「そうなって当然」という自然な確信が感じられ、私は、それに流されていた。それとも、単にハンサムに目が眩んでいるだけか。 「案内といっても——」せめてもの足掻きをこぼす。「大したものないよ、この辺は。遊びに出るならここじゃなくて——」 「遊びとやらはわからない。あんたが好きな場所でいい」 好きな場所、と繰り返す。「好きな場所ね、……」 思いつくまでの間のあとで、私は通りを歩き出した。一拍して、背後で足音がする。
表通りを駅のほうへ進むと、住宅と住宅の間にぽつんとブティックが現れる。寂れた街の片隅に奇跡的に店舗があるのは、この街がデザイナーの故郷であり、初出店の地であったからだ。営業時間を過ぎた店先は照明が落とされて、街灯の微かな光にウインドウのドレスが浮かぶ。いつ見ても、夢みたいだと思う。洗練されたシルエット、美しいドレープ。夢みたいなドレス。 移動のあいだ彼は事情を語った。今は正規の休憩時間ではなく、機材トラブルで降って湧いた空き時間であるということ。しばらくはスタジオにいたが、やることもないので焦れて、衣装のまま外に出ていたこと。かと言ってこの街のことは何にも知らないので、階段でタバコを吸おうとしていた——機材が直ればすぐに撮影を再開する、と言われているそうで、場所を離れていいのかと私は訝ったが、彼は「あの調子じゃ直るころには夜が明けてる」と言い切った。不思議と、彼がそう言うなら、そうなのだろうという気になる。彼は未来を覗き見てきたかのような呆れ顔だった。 「他人をほっぽり出すことに罰則を設けてほしいね」と、言う。「何が何だかわかんねえままほっとかれると、イライラしちまう」 案外、寂しがりなのだろうか。思ったが、それは言わずにおいた。 店の前に着くと、私は黙ってウインドウへ寄った。彼は道端に立ったまま、私の背中に声をかける。 「ここ?」 「そう」私は答え、ドレスを見つめる。「ここが好き」 「服が好き?」 「そうね——」つぶやき、付け足す。「好きよ。でも、ここの服は特別」 「有名なの」 彼が言うので、私はやや呆れた顔をしてしまった。振り返って尋ねる。「知らないの?」 「こういうの、よくわからない」 「あなたモデルをしてるんでしょ? 服に詳しくなくていいの」 「始めたばっかりだ。これから覚える」 返答に片眉が上がった。モデルになりたてだというのに、ロケがあるような仕事をしている——もちろん彼は美しいが、業界には美しい子などゴロゴロいるのだ。だれか有力な人が後押しをしているのだろう。 「いつか、仕事で着るかもね」私は言った。「あなたには似合いそう」 「あんたは着ないの」 なんでもないように彼は訊く。私は、ウインドウへ目を戻し、もう一度ドレスを見つめた。 「……私には着られない」 背後で、物音がした。スニーカーの擦れる音がして、彼が隣までやってくる。彼はマネキンに目を細め、重心を移動して様々な角度から眺めた。元の位置へ戻ると、つぶやく。 「俺にも無理だ。入りそうにない」 思わず口元が緩んだ。けれど見上げた横顔が真剣そのものだったので、私の笑みは引っ込む。 「……着たいの?」 「着たい服はない」彼は答えた。「でもあんたは、これが着たいんだろ」 戸惑いが湧く。どういう意味なのか——あくまで同じ条件で考えよう、ということか? 彼がこのブランドのスーツを着たならば、どんなに映えるか! けれども確かにドレスでは、彼の体躯を収められないだろう。腰に巻きつける布にしかならない。 その想像は私を愉快にはしなかったし、そもそも滑稽でもなかった。ただ、少なくとも私は、惨めな気分にならなかった。それは確か。 「素敵でしょ」同意を求めたわけじゃなかった。「憧れなの」 「高いの?」 「そりゃね。でも、値段は問題じゃない。これは夢」 ガラスに触れるギリギリに指を浮かせた。彼の目が、爪の先へ向くのが分かる。 「見て、……このシルエット」私はゆっくりと線をなぞった。「この優雅なドレープ、艶……この繊細な仕上げ、……ステッチ! どんな細部さえ美しい。完璧よ、……だから夢」 指を離すと、彼の目は、ドレスでなく私の指先を追った。その視線を切るように、私は彼の目を見る。 「あなたも、夢にならなきゃ」 「夢?」 「みんなが、あなたを見て、うっとりするの。あなたのいる世界……素敵で、完璧で、美しい世界に、憧れるの。現実ではないと知ってても。手に入るものじゃなくてもいいの、ただ夢が必要なのよ。こんなに美しいものがこの世にはある、こんなに素敵なことがあるってほんのいっときでも信じられる、そういう夢を見ないでは、生きていけないのよ、人は——」知らず、口をつぐみ、また開く。「私はそう」 彼は黙って聞いていた。分かったのか、分からなかったのか、それすら見えてこない。静かな表情は、ただ沈黙の思慮深さだけを湛えている。凪いだ瞳……エメラルドブルーの虹彩が、街灯のわずかな光を拾って瞬いた。飛び込みたくなるような色。 「覚えておく」不意に、声がした。「そういうもんがある、ってこと」 彼の厚い唇が動くのを、私は見つめていた。頬にふれた指とおんなじに、その唇も、温かいのだろうか。
人生は、人生だから、良いことばかり続かない。その割に悪いことは続く。打ち倒れた背を踏むように。転んだ人を蹴るように。 駅前の広場へ向かおうと、一本また路地を入って裏通りを歩いていた。薬局のあたりまで来たとき彼はふと足をとめ、斜め向かいのコンビニを指した。何かスナックでも買ってくるらしい。 私はとうに扉を閉ざした薬局の前で待った。現政権になってから、首都では二十四時間営業の店もちらほら出始めて、郊外にもこんな時間まで開いている店ができている。便利になった、と思うと同時、もし眠らない街になったら、この街はどのように変わっていくのだろう、とも思う。彼の祖国はどうだろうか。最近、旅行に行っていない。 彼が買い物を済ませて出てくるのを待っていると、足音がした。コンビニのある東から、若者が歩いてくる。端末をいじりながら歩道を歩いていた青年は私に気づいた。足を止める。 「やあ」声をかけてきた。「ひとり?」 私は答えない。顔を逸らし、目の前のアパートを見据える。 「暇してる?」どこか笑い含みの声だった。「それ。なんかあった?」 言いながら、目元を拭うようなジェスチャーをする。視界の端に、青年の口角が見える。 「直さないの?」 うんざりした。嫌がられていると知っていて、嫌な気持ちにさせてもいいと思っている、そういう態度。 「気合い入ってる」端末を持ったままの手で指を差し、上から下まで示す。「パーティー? だよね? 戻んなくていいの」 口を固く閉ざした。如何なる反応も、こいつ相手に与えたくない。 されて当然の無視なのに、青年は苛立ったようだ。つまらなそうな顔をして少し黙った。だが立ち去らない。 ふと、その表情が変わる。何かいいものを見つけたふうに、口元が歪む。 「ねえ、きみさ」 一歩距離を詰め、物珍しげにジロジロと見てきた。私は目の前のアパートの、閉じたガラス扉を睨む。注意深く意識の外へ青年を追いやろうとする。そんな私の耳元で、青年は言った。 「きみ、……男?」 息が、止まった。全てが吸い込まれ、一瞬のうちに真空になる。 青年はまだ、何か言っている。その声は耳に入らない。私は依然、アパートを見つめ、何か、全てが瓦解しそうな、その予兆だけを感じている。今にも崩れそうな、全て砕け散りそうな、それが辛うじて内側に保たれているそのぎりぎりを、感じている。 一歩も、動けない。 彼が戻ってきたことに、気づいたようで、気づいていなかった。目には確かに入っているのに、それが何を示しているか繋がらない。空白のままだ。 でも、その動きは見えた。彼が眉をひそめ、私を見、青年を見る。数拍を置いて、おもむろに右の腕を伸ばす。 頭上から降りてきた腕に、青年は反応しなかった。たぶんあまりにも予想の外で、反応できなかったのだろう。なんの抵抗もされぬまま、彼の手がスマートフォンをつかむ。 まったく自然に彼は青年の端末を奪った。青年は、一拍遅れて気がついて、ぽかんと見上げた。UFOの目撃みたい。 この場のだれも事態の把握ができなかった数秒——ののち、彼は思い切り腕を引いた。それが何を意味するか、残りの二人が悟った瞬間、大きく振りかぶる。長い腕を、鞭のようにしならせて。 ぶおん、と空を裂く音がした。スマートフォンは、夜の灯りを照り返しながらきらきら光り、遠く彼方へ消えた。 「は——」 青年が呆然とする間に、私は彼に腕を取られていた。さりげなく引き寄せながら彼は言う。 「〝Come on, fetch!(そら、取ってこい!)〟」 言い捨てた途端、走り出す——ちょっと待って、——なんて速度! ヒールで必死に追い縋る。背後に怒声を聞いた気がした。けれども声はあっという間に遠ざかり、私は彼に置き去りにされないことに必死になる。駆けるたび、石畳に叩き付けられてヒールが潰れるのが分かる。自棄になって、途中で放り捨てた。 裸足で彼と逃げながら、私は、この上なく惨めだった。情けなく、哀れで、虚しくて、泣き出したい気分だった。彼の白い背が、夜の只中に浮かぶ。オレンジ色の灯りが落ちて、肩甲骨の陰が分かる。 飛び立っていけるのは、彼一人だけなのだ。
彼が歩みを止めた時、私は泣いていた。泣きじゃくり、乱れた呼吸と嗚咽とでぐちゃぐちゃになってえずいた。彼は、そんな私を見つめた。ほとんど息が上がっていない。 気遣いも、憐れみも見せず、彼は黙って立っている。私は、へたり込み、膝を抱えて、子どものように泣いた。幼いころ、歳の離れた妹を見て苛立ったのを思い出す。癇癪を起こし、わんわん泣いて、手に負えなかった。今の私みたいに。 「いつも、——」勝手に声が溢(こぼ)れる。「いつも、いつもこう!」 引き攣る声が耳障りだった。彼にぶつけて、何になるの? 「悔しい、馬鹿みたい、こんなにも、こんなに惨めで、惨めで、私、……今だって、あなたがいなければやり返すことも、できずに、殴られて、真っ白になって、打ちのめされたものを必死に掻き集めて、ぎゅっとしてるだけ。悔しい、……あんなコケにされて、何にも思い知らせてやれない、毅然と立っていることもできない。馬鹿丁寧に、傷ついて、悲しくなって、あんな野郎に——」 指が、膝に爪を立てる。磨いた爪が強く食い込む。 「ずっと、ずっとこう。いつもだれかに、馬鹿にされるんじゃないか、だれかに笑われるんじゃないか、怯えてる、どれだけ頑張っても、そういう目から逃れられない、それに怯えるのもやめられない、昔より——夢に近づいたはずなのに、今のほうが辛い。夢に、助けられて生きてきたのに、夢にまで弾かれるみたい、私はあの服が着られない、サイズがないし、目立つから——〝ドレスを着るひとの体〟じゃないって、ありありと分かるの。この肩も、喉も、腕も手も、ぜんぶ違うって、ゴツゴツして、あの夢みたいな服にはぜんぜん相応しくないって、私は、痩せても努力しても、元から違うんだって、私は、……」 喉が詰まり、何も言えなくなる。込み上げるものは止めどなく、抑える術がない。 「あなただって——言わないだけでしょ? 優しいから、触れずにいてくれたんでしょ。見た瞬間に分かったでしょ、〝違う〟って、声も、背も、……あなたは、頬に、そっとふれてくれたけど、でも、柔らかくないの、私は、硬くて骨張ってデカくって、精一杯めかし込んでもせっかくキレイにメイクしても、こんな風に、台無しになる、せめて、……」 息が切れ、必死に吸う。痙攣のように震える胸を押し潰し、絞り出す。 「強くなりたい……夢にさえ、叩(はた)かれた気持ちになるなんて」 彼の顔が、見られなかった。こんなことを捲し立てられて、どんなにか困っているだろう。助けてくれたのに。礼を言うどころか、ほとんど責めるみたいにして、八つ当たりをしている。彼は、今どんな顔をしているだろう。どんな顔をしていても、私は、追い詰められる気がする。いっそのこと呆れ返って蔑んでほしい。でもたぶん、彼はそんな扱いをしない。 体温の気配がした。彼が私のすぐ傍に、かがみ込んでいる気配がする。 触れてこないまま、彼は私を見ている。見えなくても視線が分かる。せっかく助け出したのに、しらけているだろうか。 「悪かった」急に、彼は言った。「あんなことして」 意味が分からず首を上げた。彼はやっぱり、静かな顔をしていた。 「俺は、あんたのためになることをしたんじゃない。あいつが気に食わなくて、やり込めてやろうとしただけだ。あんたがそれでどう思うか、ちゃんと考えてなかった」 「違う、」私は勢い込んで、咽せ、なんとか呼吸を落ち着ける。「あなたは悪くない。私は——」 「俺は」低い声だった。けれど、温かな響き。「デカいよ。あんたより。身体も強い。あいつが少しも怖くなかった。それに酷いことを言われたのはあんたであって俺じゃない。俺が平気でぶん殴れるのは当然だ。あんたは殴れないのに、自分は平気で殴れるからって殴っちまった。それって——」言葉を探すような間のあと、続ける。「見せびらかすみたいだ。ヤな感じだ」 声が出なかった。唇をわななかせるばかりで、何一つ返せない私に、彼は言う。 「あんたはきれいだ。服もメイクも、俺にはよくわかんねえけど、俺はあんたが立ってるのを見て『いいな』と思った。この街の感じだ」ふと目を回し、考える。「夢の話、聞けてよかった。正直俺はこの仕事の意味がわからなかった。何の役に立つのか——」こめかみを掻き、「でも、必要だってわかった。よくわかった。俺はたぶん、あんたみたいなやつのために、やるべきなんだな。……しっくりきた」 少し俯いた目の、長い睫毛が、彼の瞳をほとんど隠し、それでも透けて見えるその碧に引きつけられる。逸らせない。 「あんたが、横っ面叩かれた気にならねえような、夢でいるよ。……いるっつーか、そうなろうとしてみる。……できるもんかは知らねえけど」 鼻の奥が、つんとした。目の縁が熱くなり、じわりと涙が湧く。さっきより、ずっと熱い雫がすっかり腫れた瞼からこぼれ落ち、頬を伝う。 私は悲しくない。 「あなた、——」恰好のつかぬ鼻声で答えた。「——優しすぎるんじゃない?」 彼が目を向ける。覗くような上目遣いの碧眼が、私を映す。 「さあね」そして、逸らした。口籠もり、仕方なさそうに続ける。「……『甘い』とは言われる」 口が勝手に弧を描き、笑いが漏れた。 「……同感」 空の端が白くなっていた。明けかけた夜の藍色が、透き通るように、澄んでいる。
私は出勤前に本屋に立ち寄り、雑誌を買った。普段からちょくちょく買う雑誌だが、発売日を心待ちにしたのは久々だ。めくりながら店を出て、すぐに目当てのページを見つける。見開きの写真だ。アパートの一室、窓に青年が腰掛けている。 白いタンクトップに、色の浅いヴィンテージデニム。プラダのスニーカーを履いた彼は、背中に大きな羽を背負っている。今しも、背中から落ちて、空へ出ていってしまいそうに見える。ほとんど閉じたような伏し目の隙間に覗く、エメラルドブルー。よく撮れているけれど、写真じゃこれが限界か。私は、密かに満足する。 あの日、空がすっかり白むと、彼のスマートフォンが鳴った。彼は電話には出ずに画面を一瞥し、肩をすくめた。ほらな、と言わんばかりだった。つまり彼の予言通り、「直るころには夜が明け」たわけだ。 スタジオに戻るという彼を、その場で見送った。去っていく背に、私は何か渡したい——物でも、言葉でも——と強く願い、でもそれはすぐに打ち消した。彼の羽に重しをつけようとするようで、気が進まない。 代わりに当たり障りのない問いを投げた。「どの雑誌に出るの?」 すると振り返った彼は、その日いちばんのしかめ面になった。どうやら思い出せないらしく、かなりの長さの沈黙があった。こちらからいくつか提案してみようかと迷い始めたころ、ようやく彼は首を傾げ、自信なげに言った。 「……ヴォーグ?」 記憶は間違っておらず、こうして、私は彼に辿り着いた。 憧れのブランドを着る勇気は、いまだにない。そもそも丈や肩幅が合うドレスはないし、出る気配もない。夢見たものに弾かれる気持ちは折に触れ顔を出し、嘲笑が怖いのも、ひとの目に怯えてしまうのも、自分を自分できれいだと時に信じられなくなるのも、変わらない。まるで同じだ。 それでも、最悪だったあの日、〝夢〟が私に寄り添ってくれたことだけは事実だった。今までも私はそうやってなんとか生きてきたのだ。たぶん、今後も。 ひとしきり眺めて満足し、私は雑誌をバッグにしまった。代わりにスマートフォンを取り出し、あれこれと検索をかける。
インスタグラムで彼を見つけた。あの天使の名は、「エドワード」だった。
2023.09.28:ソヨゴ
エドワードの誕生日祝いに書いた話です。 『ビューティフル・インセクト』後のつもりですが、そうでなくてもよい話。 エディが別の国の言葉(たぶんフランス語)をけっこう話せてるのは、ひとえにパトロンの某氏の教育ゆえかと思います。
Inspired by Heaven/Mitski