昭和初期ごろの設定で、  架空の文豪・桐堂葉市が新聞連載しているエッセイというていのお話。


先だってX氏がくれた煎茶を、私は飲もうとして居た。何でも彼の郷里の産であるとかで、時季を思えば初摘みに相違なく、できれば頃合いの菓子などある時に屹度淹れようと考えていたのが、ひとたびそんなふうに決めると何れも相応しくない気がしてくる。街で茶菓子を覗いては、此れも違う、彼れも違うと首を振り振り、とうとう月が替るまで飲まずに居たので、いい加減に封を開ける事にした。理想の相手を求むる儘に春を過ぎてしまう様ではなんとも本末転倒である。連れなどなくとも茶は美味い。  丁度その時、宅に独りだった。チヨは一刻許り前に外へ出たきりで、三青君は朝から留守である。急須に何さじ落とそうかしらと私は考え、チヨが直帰るだろうから、二人分出せば良かろうと定めた。今日は彼是と用事があると慌ただしく出て行ったものだが、既に昼餉の時間も近い。律儀な彼女は今頃帰路を急いでいるに違いない。  私は座卓に正座して、どの器を使ったものか暫し思い巡らした。やがて心が決まり、さア薬缶に水を入れようと腰を上げた、その折であった。 「只今帰りました。」  玄関にチヨの声がした。私は其方を振り返り、そのまま立って迎えに出た。 「先生。」  チヨは私を認めると、鋭く云った。如何も様子がおかしい。吊り上がった目は忿懣を湛え、唇は悔しそうにしている。 「何だ、一体。どうしたい。」  私は面食らって答えた。ふと見ると、チヨの両肩の、満杯の風呂敷包みで大きく広がった腕の片方に、分厚い本が挟み込んである。私は一先ずチヨの肩から包みを受け取らんとした。普段であれば矢継ぎ早に遠慮の言葉を掛けながら忙しなく下駄を脱ぐのであるが、彼女は三和土に突っ立ったまま私が荷物を取るに任せた。 「先生。」二度目の言葉は少し濡れていた。「お願いが御座います。」  風呂敷の中を覗いていた私は目を丸くしてチヨを見た。長年就いてもらっているが、そんな言葉がチヨの口から聞かれた事はなかった。 「云ってみなさい。」  チヨは、暫く、何か堪える様にして激しい鼻息を吐いていた。その勢いに任せ、不意に小脇の書物を開き、私に突きつける。  私は背を屈め、目を凝らした。如何やら菓子のレシピである。但し——。 「あたしに、パンケエキの作り方を教えて下さい。」  大方の事はそれで判った。私は背を戻し、一つ頷いた。

「ハナからあたしに読めっこないって莫迦にして居るんです。口惜しい! あの女だって、自分で読める訣は無いのだわ。御主人が訳して呉れたのへ乗っかっただけだっていうのに、勝ち誇ったような顔をして。いいうちに嫁いだってのがそんなに偉い事ですか。正絹のお着物一つ満足に手入れ出来ない奴が、いったい何よ。ふんぞり返って!」  時おり袖で目を押えチヨが口早に言い立てるのを、私はウンウンと聞いていた。下駄を脱いだチヨは居間へ上がると座布団のうえへ膝を突くなり、「聞いて下さい。」と語り出し、私はいそいそ二人分の茶を淹れ、湯呑を差し出して遣った。そうして耳を傾けた所、どうやら郷里の知合いとバッタリ出会した様である。  郷里の知合いと云ったって当時から家格は違った様だ。兎も角、良家に嫁いだ彼女は今や東京の人間で、デパートにある青果店で食材を吟味していたチヨへ後ろから声を掛けた。モガ風のスーツに身を包み小さなバッグを手にした彼女は、嬉しげにチヨの近況を尋ね、訊いても無いのに自らの暮しを語り、眉を下げて見せた。 「哀れむ様な目で見やがりますから、あたしだって腹が立ちまして。あたしの主人は押しも押されぬ人気作家の桐堂先生で、大層気難しいひとだけどえらく気に入って貰ってるって、ええ、まあ、張り合いましたよ。」 「私は気難しいのか。」驚いて尋ねる。 「ああいえ、それはほら、話をね。一寸ばかし盛ってしまって。……でも先生、先生御自身は、気難しいではありませんか。あたしには優しい雇い主だけど。」  言い訳を挟んでから、チヨは続きを話した。相手は、チヨの雇い主——即ち私の正体を知って些か気分を害したらしく、少々ムッとしたあとに、急に矢鱈な笑みを作った。 「先だって子供たちのために、パンケエキを焼いたなんて云うんです。西洋のレシピを使って。貴女洋菓子なんて作るのかしら、と訊いてくるから、ええ勿論、桐堂先生は、甘味好きで有名ですからねと。文学に通じた方なら誰だってご存じなのに、貴女知らないの、って云ってやったわ。ざまあ見さらせ。」 「そんな些事、作家連中か編集くらいしか知らないのじゃ無いかね。」 「おなじ事ですよ。限られたひとしか知らないんだけれど、貴女知らないんでしょうって、そういうのが効くの。彼奴には。」  チヨの言葉はその通り、覿面効いたそうだ。彼女はまたもムッとして、今度は怒り顔のまま紙袋に手を入れた。チヨが目をやると紙袋にはフルーツ屋の屋号があった。彼女は分厚い書籍を取って、チヨに突き出した。 「ちょうど、お友達に貸すために持って来てたんだそうですよ。貴女に暫く貸しますから、どうぞ作ってみて、ですって。其れが——其の本ですよ!」  私は卓へ目を移し、改めて捲る。英国の本である。表紙も、中身も、全文が英語だ。 「どうせ学のない小間使い風情に、英語のレシピなんか読み解ける筈がないって面ですよ。莫迦にして! パンケエキだなんて、別に何がお偉いんだか。小倉焼で十分ですけれど、何もあたしに作れないモンじゃ無い筈ですよ。先生は英語がお出来になるでしょ。ドウゾ、手伝って下さいまし。」  袖でも噛みそうな剣幕で告げるなり、傍らの袋を漁る。載っている写真を頼りに食材は揃えた様である。  私は平たいパックを中に見付けた。「おや、苺だね。」 「ええ、苺。いいでしょう? ちょうど季節じゃありませんか。」 「春だねえ。」私は答え、そして不図、視線に顔を上げた。「どうした。」 「——いえ。」  チヨは既に、目を逸らしていた。思いの外静かな声であった。

料理というのは段取りが肝要である。次に何れを如何(いか)にすべきかが頭に入っていなければ、機を逃し、失敗(しくじ)ってしまう。従って私とチヨは一通りレシピを見る事にした。卓袱台に本を広げ、先ず私が英文を読む。それから頭で訳したものをチヨに口伝えする。私は如何(どう)も、異国語を読む際つい口中でモゴモゴと遣るので、其の声を聞き留めたチヨが小さく笑った。 「先生。英語をお読みになると、一段、声が低くなりますね。」 「そうかい。」私はチヨに目を移す。「自分じゃ分からんな。」 「そうですよ、何だかどきどきしちゃう。まるで違う人みたいだわ。」  何処かはしゃいだ風である。私は思わず眉を寄せた。そんな台詞を無邪気に云うのは、何とも思って居らぬからだ。安堵する一方、釈然としない心地もする。 「お前は低い声が好きかい。」  本に目を戻しつつ訊くと、チヨの返しにやや、間が空いた。 「……如何なんでしょうねえ……。」  チヨはまた、歯切れの悪い返事をして、俯いてしまった。私は如何も彼女の調子が狂っているのを認めた。そして、其の理由(わけ)に薄らと、思い当たる節もあった。 「不安になったかい。」  短く訊くと、チヨはそっと顎を引く。 「然うかもしれません。でもあたし、不足なんて、これっぽっちも無いのに……。」  チヨの背景を私は知らない。  うちに来た頃、彼女は三十路の手前で、他家に嫁ぐと云う事は既に頭に無い風だった。私とて仮にも主人であるから、チヨに縁談を望む素振りがあれば、少し融通してやるという心積もりもあったのだが、とうとう今日までそんな気色(けしき)は見受けられない儘だった。チヨは気立が良く、気も回る。三十路を過ぎたとて引き取り手は居よう。 「お前は、今の生活が、気に入っているのかい。」  私は、努めて優しく訊いた。チヨは俯き顔のまま、膝の上の手を弄っている。 「……其の積りで。……」  軈て、細い声が返った。 「あたしは、自分の人生に、ちっとも不満は無いんです。先生も三青さんも、変り者だけども、優しいひとです。良い雇い主に恵まれて、向いてる事をさしてもらって、こんなに良い事無いと思って、過ごして来たんです。けれども、あのひとに会って、チョットだけ怖くなりました。いえね、あんな女のそぶり、気にしてなんかいませんよ。でもね、……例えば夫を持って、子供を持ったりなんかして、然う云う事が、必要だったのかと、……今は良くても此の先に、悔やんでしまったりするだろか、と。」  チヨは、益々細くなる声でそんな事を云った。私は、矢張り常の様に、胸がキュウとなるのを覚えた。私はチヨがしょぼくれる様が如何も苦手だ。暫く、チヨの旋毛を眺める。 「私はね。チヨが今から然う云う生活を持ちたいと思えば、力添え位してやる積りだ。けれどね。——」  手を伸ばし、チヨの視界に私は右の手を入れた。人差し指で卓を叩くと、チヨがおずおず顔を上げる。 「私は、チヨが、聡明な実利家と知っている。お前が今まで、夫や子を持つと云う道を選ばずに来たのは、相応の訳があっての事では無かったか。お前の許にも、彼是と縁は来ただろう。其の時に立ち返ったとて、お前、其の縁を結ぶかね。」 「いえ。」  すぱりと、チヨは答えた。迷いの無い返事であった。 「きっと断ります。前とおんなじに。——」  然し、彼女は少し目を背けた。其の先の言葉も出て来ない。  チヨの斜めを向いた顔を見詰め、私は云った。 「続きを遣ろう。」  ハッとした様にチヨの目が戻る。 「買って来たのだ、作ってみよう。案外上手く出来るやもしれん。」  手を退けて、指を行に戻すと、其の指先に視線を向けてチヨは云う。 「当り前ですよ。あたしに焼けない筈がありません。」  私は声に出さず笑った。静かに、続きの英字を読む。

パンケエキが焼けた頃、三青君は丁度戻っていた。  無論、それを見越してはじめから三人分を焼いていたのだが、チヨの得意満面の笑みと云ったら、戻った三青君が「神戸牛でも当たりましたか。」と目を丸くした程である。 「いえね、パンケエキをね、焼いてみたんです。見様見真似で。何でも英国のレシピだそうで、あたしは英語が読めませんでしょ。だから先生に手伝って貰って。」 「はあ、然うですか。よろしいですね。随分きれいに膨らんでいる。」 「三青さんもこう云うお菓子は慣れてらっしゃるでしょ。どんなもんか、食べてみて下さい。」  チヨは張り切って洋皿を取り出し、パンケエキを載せるとクリィムをうまいこと搾り、そこに大粒の苺を添えた。それから周囲にも切った苺を散らして、粉砂糖をふるい、蜂蜜をかけた。卓に胡座を掻いた三青君は目の前に出された皿を見やり、不図脚を解くと、正座をし直す。 「では、謹んで。」  凛とした声に釣られてか、チヨもおずおずと正座をした。ゴクリ唾を呑み、緊張の面持ちである。私は少し阿呆らしい心地で自らの皿を見た。見た目は何ら遜色ない。 「いただきます。」  三青君はナイフとフォークで躊躇なくパンケエキを切った。クリィムと苺、蜂蜜を、うまい具合に掬い一口に頬張る。しばし、瞼を下ろし、咀嚼する。いつの間にやら私も彼を食い入るように見詰めていた。軈て、彼の喉仏が動く。 「大変、美味です。小麦の素朴な風合いが、苺の酸味と蜂蜜の濃厚な甘みを引き立てている。生地は厚過ぎず薄過ぎず、硬過ぎず軟(やわ)過ぎず、ふっくらとしつつ歯応えがあり、実に丁度よろしい。粉砂糖やクリィムの飾りは目に愉しいですし、クリィムの滑らかさが異なる食感を加えて具合が好い。初めてとは思えません。流石です、チヨさん。」  些か、褒め過ぎである。勿論チヨは上手くやったし、其れは彼女の技量あっての事ではあるが、抑もからしてパンケエキと云うのはそこ迄難しい代物でない。 「あら、然うですか。あら、まあ。何だか勿体無いみたい。有難うございます。」  チヨはほっとした風に、照れ笑いしながらお辞儀をした。私は何となく溜息を呑んでパンケエキにナイフを入れた。口に運ぶ、——確かに、私とて評に異論は無い。 「お前は本当に何でも上手いね。」 「この位で良かったら、また何時だって作りますよ。」 「然し、珍しいですね。チヨさんが洋菓子に興味を持つとは。何かありましたか?」  不意の一言であった。狙い澄ました様でもある。  私とチヨが顔を見合わすのを、三青君は訳ない顔で見ていた。諦めたのか、チヨは嘆息し、自らもパンケエキを切り分けながら話し始めた。 「成程。」  一部始終を聞き終えて、三青君は云った。 「其れは災難でしたね。チヨさん、負けて差し上げなさい。」 「はい?」  チヨは目を丸くしていた。私も、三青君が一体何を云うやら見当が付かない。 「不安なのはね、向こうさんです。チヨさんに出会して、彼女は不安になったんですよ。結婚をするに当たって、彼女にだって諦めた物や捨てた物が無い筈がない。其れでも結婚するしかない、家庭を持つのが常道だって信じて進んで行ったのに、不意に出会ったチヨさんは何ら不足のない顔をしている。そんな筈はない、と思いたい。でなきゃあんなような事、する必要が無いんです。」 「然うですか、」チヨは納得した様な、腑に落ちない様な顔である。「けれども、だって。お子は可愛いでしょう? 良いものも着れて、趣味で洋菓子を焼いて。働いて行く必要もないし、体を悪くした老後にだって、ずっと家族が有るんでしょう。其れであたしを見て、勝っているって、思えない物ですかねえ。」 「じゃ、お聞きしますが。その彼女の有り様は如何です。チヨさんは、入れ替われると云われたら、彼女になってみたいですか。」  チヨは、虚を突かれた風で、半ば茫然と答えた。「いいえ、……」 「其れが答えじゃあありませんか。幸せそうに見えたなら、チヨさんだって向うになってみたいと思う筈でしょう。然うは思わないと云うのは、不幸が滲み出ているんです。不安と不足が。貴女の勝ちだ。」  素っ気なく継ぐと、三青君はまた頬張った。チヨは自らのパンケエキを見て、依然茫然の体だ。 「勝ち負けは、よく分からんが。」私も云った。「少なくともチヨが不安になる程の事も無いと、私も思う。家族なぞ、あったところで続くとも限らないからね。」  チヨは此方を見て、少々気後れした様になった。其の仕草でようやく私は自身の家族に思い至った。気にした物でも無かったが、余計な気を遣わせてしまった。 「幸せな結婚もあれば、不幸せな結婚もあろう。後になって悔やむと云うのはどの人生にも起こり得る事だ。伴侶だ子だのの有無と云うのも、然う云う一つに過ぎないんでないか。」  話を逸らす気持ちもあって続けると、チヨは神妙に頷き、厳かに、ナイフとフォークを取る。 「然うですね。屹度、無い物ねだりです。……お互いに。」  取っておいたらしき苺を、フォークでずぶりと刺して、続ける。 「あの子が不幸かは分かりません。あたしが幸せなのか如何かも。でも、屹度、お互いに、違う人生を見たんですね。其れが若しかして今よりも良かったと云うのが、怖くなったのね。互いに、——詰まらない意地を張りました。」  赤い実が、ぱくりと含まれる。春を告げる甘酸っぱい果実は、もう半月も過ぎてしまえば並ばなくなる。旬の終りだ。  然し、旬などと云うのも、所詮人間の都合である。  苺の方に、其の積りも無かろう。芽が出て枯れていくまでが、全て苺の生涯なのだから。

いつの間にやら分厚いレシピは無くなっていた。如何やらきちんと元の所へ返った様だ。  チヨは以前と変わらずに、ハキハキ日々をこなしている。今は、台所で大福を拵えているらしい。 「パンケエキはもういいのかい。」と訊くと、 「作れる事は、分かりましたからね。私はやっぱり和菓子が好きです。」  と返ってきた。其れは有難い。何せ貰った初摘みが、まだ缶いっぱい残っている。


2023.3.18.:ソヨゴ