沢蔵のちょっとしたお話。


ーメンってあるじゃん」 「無くはないな」  醤油ラーメンを啜りながら返すと、沢霧は顔をしかめた。しかし、その表情をわざわざ見てやる気にはならない。 「またそうやって言葉尻をさあ」 「へえ、」これには感心して目を上げた。「お前、『言葉尻』なんて使えたの」 「は? 舐めんな。蔵未がよく言うから覚えたわ」  そういうことかよ。——舌を打ちたい気分になったが、周りに迷惑なのでやめる。とはいえ狭い店内に自分たち以外の影はなく、どこもかしこも油じみた店に入ってくる初見の客もいるまい。 「いや、それはよくて」  沢霧はつぶやき、自身の目の前にある豚骨を箸で指す。 「なんで酒呑んだあとってこんな食いたくなんの? 謎じゃない?」  俺は箸を止め、器に渡す。尻ポケットからスマートフォンを出し、その場で検索した。 「酒呑むと喉渇くって理屈は分かる?」 「あー、聞いたことある」 「それで水分不足になっているから、まずスープ状のものを欲するんだと。それから呑みのあとはアルコールの分解で体がガス欠になってるから、いかにもエネルギーありそうなコッテリしたものを食えというふうに視床下部が命じるらしい。アルコールの作用で満腹感を覚えにくくなるのも一つの要因だとさ」 「へえ〜」 「で。これくらい、お前自分で調べらんない?」  言い捨てて、スマートフォンを置く。沢霧はさして気にしない顔で、 「自分で調べても意味ねえじゃん」 「なんで」 「だって、蔵未と話すためだし」  黙るしかなかった。返す言葉がない俺をよそに、沢霧は取っておいていたらしいチャーシューを頬張り、満足げにしている。 「……よく嫌にならないね」  ふと呟いた声は、店内の、あまりに喧しい換気扇に掻き消されたかに思えた。が、やっぱり彼はちゃんと拾っている。 「それなー。自分でもモノ好きだと思うわ」 「ホントに変わってるよ」 「そうは言うけど……蔵未ってそんなに態度終わってるの俺に対してだけじゃん。他の人には優しくない?」  まあ、それはそう。  特別意識をしなくても、自然と、いい顔をしてしまう。遣わずともよい気を遣い、嫌われないようにどこかビクついて、やわらかい態度で、甘いことを言う。内心を偽っているというのとも少し違う。自分でもどうしようもなく、そういう思考回路になる。「自分で調べろよ」、なんて、他の人と接するときに、こんな発想はそもそも出ない。  理由はうっすら見当がつく。俺はたぶん、彼に甘えているのだ。  最初のうちはこんなヤツ——見るからに陽キャで、話合わなくて、文化レベルもまるで違うヤツ——に嫌われてもいいと思っていた。なのにふとした拍子に今は、いつか見放されるんじゃないかと頭をよぎる。でも多分、どちらかと言えば、見放されるほうが健全だ。沢霧が俺の歪みに付き合う義理はないんだから。 「俺はさあ」  沢霧が言った。スープの上の油をつつきつつ、俺は彼へと目を向ける。 「やりてえことしかしないワケ」 「知ってる」 「だからさ、俺が蔵未とラーメン食うのは俺が食いたくて食ってんの。やりたくなくなったらやめるし、やりたいうちはやってるし、それは蔵未にはどうしようもなくない?」  自然と片眉が上がる。しばし考え、首をひねる。 「そうかな」 「そーだよ。だって蔵未には、俺がなんで蔵未が好きだか、わかんねえんでしょ。俺もわかんねえもん。それってコントロール無理じゃない? お前が俺に好かれようとしたって、それを俺が気にいるワケじゃないんじゃん」  沢霧にしては、理解しやすい言い回しだった。 「……そうだな」 「そ。俺は今の蔵未が好きだし、だからそのままでいたらいいじゃん」 「……そうするよ」  おっしゃる通りだった。誰にどう思われるかなんて、コントロールできるわけがない。それ以前に、俺はたぶん、どう足掻いても俺にしかなれないだろう、——こういう人間にしか。 「蔵未は、あれな」沢霧が踏ん反り返る。「備えすぎ、なんか起こる前から。そんなんだから疲れちゃうんじゃん」 「お前みたいなのが後先考えず銀山涸らして凋落すんだよ」 「どういうディスり? 傷ついたらいいの?」 「傷つかないだろ。この程度で」  箸を卓に置き、手を合わせる。沢霧は慌てたようにスープの中を掻き回し、幾らかの麺を啜って同じようにした。 「蔵未」  沢霧は、拳を出している。意図が読めた。 「どっちが奢るかジャンケン——」 「別会計で」 「蔵未が勝つかもしんないじゃん」 「負けてばっかりの人生なんだよ」  伝票を持って立ち上がる。しばらく、彼は不満げな顔で拳を出したままにしていたが、やがて渋々と立ち上がった。レジへと向かう俺をよそに、彼は厨房を向く。 「親父! ごっそーさん!」  するとバタバタと音がして、間も無く店主が厨房から出てきた。伝票をレジに置きながら、俺は自分に呆れ果てる、——とどのつまり、俺は根っから、気が利かないのだ。 「はいよ。別会計ね?」  店主が愛想良く訊ねる。俺は、全く似たような笑みで答える。 「はい。お願いします」  己の横顔を、沢霧がしたり顔で見ていることはわかっていた。店出たら殴る、——思いつつ、俺は黙って財布を開く。


2023.06.27:ソヨゴ