ぎょにくさんのキャラクター、赤崎君をお借りしています。 昭和初期ごろの設定で、 架空の文豪・桐堂葉市が新聞連載しているエッセイというていのお話。
[前編]
先日、——社のS君が憤然たる様子で家を訪れ、一通の封書を渡してきた。どうやら先だって私が書いたあの拙(まず)い話に文句が来たらしい。一体何が書かれているやらと見ると、突然(いきなり)『やい、貴様』とある。私はそこで愉快になってしまった。 「こりゃどうしたことだい。威勢がいいじゃないか」 「いいから読め。酷い男だ」 S君はむっとしている。酷い男とはこの手紙の主か、それとも私か、判らないので、一先ず読んでみることにする。 送り主はあの拙い話はお前の作ではない筈だ、と云う。出版社に送りつけようと彼の人が書き溜めていた話によく似ているとかで、剽窃だとしてお怒りである。けれどもこう言ってはなんだが、そもそも盗む程の価値は見受けられない代物なのだ。あんな物は締切に急かされ、致し方なく書き上げたのみで、書いた自分でも何故こんな物を世に出して平気でいられるのかとしみじみ不思議がったくらいである。私はますます愉快になって、くくくと喉を鳴らしてしまった。 「笑ってる場合か! 見当違いの逆恨みで、お前を刺すと言っているんだぞ」 確かに、手紙の終わりには、何やら恫喝めいたことが記されていた。併し迚(とて)も本気とは思えぬ。 「口だけだよ。どんと構えていなけりゃ。君が僕を案じてくれるのは嬉しいことだが」 S君に炬燵を勧めつつ、小間使いに茶と菓子を頼んだ。のんびりと構える私にS君は不満げである。 「暢気なものだ。ついこの前、作家のNが路上で刺されたのを知らんのか。偏執狂は何をしでかすか判らん」 作家のNが刺されたと云うのは六月の暮れのことである。日蔭茶屋に踏み入るところを、待ち伏せていた女に刺された。女は銀座のキャフェの女給で、大方の話は見当がつく。見舞いには一、二度行ったが、全く懲りた様子はなく、ここの病院は看護婦がどれもおたふくでいかんとご立腹であった。 「あれは色恋沙汰だろうに。こんな滑稽な虚仮威しにいちいち付き合ってられないよ。第一あんな拙い話で、盗むも盗まぬもあるものか」 それが私の正直な処だったのであるが、ここでS君の悪い癖が出た。 「御託はいい。警護を頼んだ。父上の伝手で軍人をな」 私は仰天し、顰め面になった。S君は何食わぬ顔で炬燵に坐し蜜柑を剥いている。S君にはどうも心配症(Anxiety)の気がある。彼の家は裕福で御父上が軍人であるが、S君の双子の兄が病弱でしょっちゅう寝込んでいる。始終兄の身を案じているからか、私にまで過保護なのである。此の身は生まれてこのかた健康だけが取り柄のようなものだというに。 「大仰だな。相談も無しか」 「兎も角、明日から来てくれるから、一室用意をしておいてくれ。お前が外を出る時はきっと警護してくれるよう頼んでおいた。無口な人で心配はない」 「無口だろうとお喋りだろうと同じことだよ。他人が増えるのは御免だ」 「まあ、そう云うな。案外馴染むかもしれんぞ」 S君の父上は軍部のお偉方である。そんな彼に動いて貰ってしまった。今更お断り願う訳にもいかないだろう。災難である。間もなく小間使いが落雁と茶を持ってきてくれたものの、口の中はいやに苦いままであった。
さて翌日、本当に、一人の軍人殿がやってきた。引き戸を開けて迎えると、存外に背が低い。彼は赤崎と名乗って、敬礼ではなく辞儀をした。私も同じに腰を折って返す。 若いというのに髪が白いのに驚いたが、そういえばそれはS君もそうだ。それにしても背が低い。云ってしまえば子供のような体躯なのである。けれどもS君の父上がわざわざ寄越してくれたのだから、こう見えて手練れなのだろう。それを疑う気はなかったが一つ大きな差し障りがあった。私は反対に、上背があるのだ。 そんな心算(つもり)もないのだが、いかんせん見下げる恰好になる。かといって屈めば余計に失礼である。実際的な問題として、私には彼の声が殆ど聞こえてこないのであった。声というのは空気の振動によって伝わるものであるからして、声と耳との距離が遠ければ届く道理はない。大変弱った。 私の家には小間使いが一人と、書生が一人住み込んでいるが、この書生がまた私くらいの背丈で、赤崎氏の声が聞き辛いのは全く同じなのであった。幸いにして小間使いのチヨは赤崎氏と然程変わりなく小柄で、難なく言葉が交わせると見える。私はS君が家に来たときの有様を思い密かな笑みを浮べた。S君は一層背が高い。 「殺害予告が出たそうですね」 居間へ戻ると、茶卓で吸い物を啜っていた三青君が私を見て云った。彼が前述の書生である。彼は私のすぐ後ろを歩く、小さな軍人殿を見留めて少しだけ目を丸くしたが、品の良い人柄であるので何も云わなかった。 「またS君の悪い癖だ。大袈裟に騒ぎ立ててしまって」 「何も無ければ無いで良し、何か有ったら幸いと、結構なことじゃありませんか」 「そうは云うが、」本人を前に気詰まりだとも云い難く私はお茶を濁した。「人を煩わせるのも」 「本官の事はお気になさらず」と、赤崎氏。「基地での務めより気が楽です」 それもそうか、と思い直す。少なくとも私の家では朝早くに起きる必要もない。この家の住人は皆、昼前に起きればいいほうだ。 「慣れない処でご不便もあるかと存じますが、何卒」 私は改めて礼をした。赤崎氏も同じく返し、それから案内(あない)した部屋へ入った。
[後編]
赤崎氏は無口な人であった。併し無愛想というのとはどうも異なる様らしい。赤崎氏が我が家にやって来た日、私は歩いて数分の文具屋に洋墨(インク)を買いに出たが、赤崎氏は戸の開く音で勘付いたものと見え、直ぐ後を追いかけて来た。 「ああ、これは。すみません。お声をかけるのを忘れていて。」実のところはあわよくば独りで出掛けられないものかと思っていたのだが、そんな方便を云った。 「いえ。慣れないことでしょうから。」赤崎氏はそんな具合に返した。 なにぶん、明瞭に聞こえぬので、正確なところは判らない。けれども何とは無し、佇まいから、赤崎氏が自分を気遣ったものと私には見えた。私の意図は分かっていながら、敢えて明言しなかったのであろう。こうした気遣いをさせてしまっては二度と繰り返す訳にいくまい。抑(そもそ)も赤崎氏とて望んで受けた命ではない筈である。S君、つくづく厄介なことを。 用向きは程なく終わり、私は赤崎氏と二人、元来た道を引き返したが、目当ての文具屋が商店街の一角に有るために、帰路にもいろいろ気を引く物が待っているのだった。私は和菓子屋の前で足を止め、ガラスの飾棚(ショーケース)を覗き込んだ。赤崎氏もまた足を止め、脇に控えている。 「赤崎さん、甘い物は如何(いかが)。」 そう訊くと、赤崎氏は不動のまま、「いえ、本官は。戴けません」と云う。 「好きか嫌いかでは、如何。」 「いえ、本官は。」 「世間話とお思いください。どうです、奇麗な物でしょう。」 袖を引いて手を出し、飾棚を示すと、赤崎氏は暫く固まっていたが、軈(やが)てゆっくりと向きを変え、飾棚のほうを見遣った。その目は菊や桃の練り切り、饅頭、団子、草餅の上を寄るべなく移ろっていたが、竟にひとところに落ち着いた。赤崎氏の目の先を見て私は少し意外な気がした。 「おはぎがお好きですか。」 「いえ。」赤崎氏は判然(はっきり)云ったあと、言葉を継いだ。「特別、どうと云うことでは。」 「確かに旨そうな色ですね。そう云えば此処のを食べた事がない。」 よくよく濾された餡の深みがなんとも云えず上品である。細かな肌理は光を呑んで、小豆色の暗闇である。私はどうもつやつやと照りすぎる餡は旨そうに見えぬ。私はおはぎを五つ買った。私と赤崎氏とチヨ、それから三青君の分。三青君はひょろりと瘦せているくせ、案外な量を食う。 ついでだから、チヨの話をする。チヨは熟達の小間使いである。花嫁修業を兼ねて云々、といった働き手ではない。チヨは万事に気が利いて何より茶を淹れるのが上手いが、どうも味噌汁の味だけが濃い。他の料理は完璧である。味噌汁だけが濃いのである。不思議で、私はチヨが料理をするのを一寸覗こうとしてみたが、チヨは私が台所に入ることを極端に拒む。一度チヨが風邪を引いた時に、どれ、今日は私が炊事をしようと云うと、なりませんと腹の底から、家が揺れるほど大きな声を出した。昔気質な処があるのだ。正直を云えば、私は別段、料理という物が嫌いではない。なんなら味噌汁だけでも私が作りたいのだが、それも出来ない。かと云って味が濃いとも云えぬ。チヨは気にしいである。私はチヨが悄気てしまうと居た堪れない思いがする。チヨはおはぎをよく作る。もしや好物なのではと、もっと早くに気づいたらよかった。 そんな訳でおはぎの五つ入った小包を抱え、ぶらぶら家へ戻った。帰宅とおはぎを買って来た旨を家じゅうに告げると、二人ともいそいそと出てくる。其の儘居室へ帰ろうとする赤崎氏を引き留め、炬燵を囲んだ。 間も無くチヨがお茶とお皿を並べてくれた。三青君の皿にはおはぎが二つ。よくよく思えば、家主を差し置いて書生が菓子を倍も食うとは異様の気もしたが、三青君もチヨも勝手知ったるとばかり、当たり前に皿を見つめて平然としている。私がおはぎを二つ食べたとて、夕餉に支障が出るのだから、食べ盛りがたんと食べるのがものの道理ということだろう。 「頂こうか。」私が云うと、特に私を待つ訳でなく皆かじりついた。や、赤崎氏は待っていた。 「素朴でいいですね。春峰堂ですか。」三青君が駅前の和菓子屋の名を出した。いかにも買って来た店だ。 「そう。急に食べたくなってね。」 今度は私が気を遣った。赤崎氏は少し俯きがちに、黙々と顎を動かしている。 「いいですねえ。私、おはぎって何だか好きなんですよ。ほっとするじゃあありませんか。郷里に居た頃、ばばさまがよく作ってくれました。懐かしいわあ。」 チヨは喜んで食べている。お前もよく作るではないか、ほんの一週間前に食べた様な覚えがあるぞと喉元まで出かかったが、要するに、チヨは他人の作るおはぎを食べるのが久々だと云いたいのであろう。おはぎくらいは私もいつでも作れるのだが。 「御馳走様で御座いました」 赤崎氏が手を合わせた。さすが軍人は食べるのが早い。 「美味しゅう御座いました」 赤崎氏が頭を下げる隣で、二つ平らげた三青君も手を合わせ、茶をズズッと啜った。「先生、どうも、御馳走様でした。部屋へ戻ります。」云って、とっとと帰っていく。チヨも遽(あわた)だしく皿を下げ、台所へとてきぱき向かった。 私は赤崎氏が部屋へ戻らないのを不審に思っていた。すると、赤崎氏は不意に口を開いた。 「実を云いますと、少し、思い出す事がありました。」 「はあ。」私は話が読めずに尋ねた。「と云うと。」 「昔、慕った女(ひと)がいました。郷里に置いて来てしまいましたが……。」 聞けば、軍を志願する前、想い合っていたひとが居たそうだ。何故そのひとを置いて出たのか、赤崎氏は詳しくを語らず、私も尋ねる気はなかった。赤崎氏はよくそのひとに甘い物を作ってやったそうだ。畑仕事の合間に甘味を食べるのを彼女は楽しみにしてくれ、いつも美味そうに頬張ってくれた。 「おはぎを作ったこともありました。それを不意に思い出しまして。彼女は粒餡を好まず、私はいちいち、布で何度も濾して拵え、……他愛ない話ですが。すみません。詰まらない事を。」 「いえ。有り難いですよ。」私は心底から云った。「併し、いいのですかな。作家に話した事は、何でもじきに書かれちまいますよ。」 私が茶化すと、赤崎氏は、成る程、と呟いて、それから少し笑みを浮べた。「これは、どうやら。本官は、迂闊を致しました様です。」 奇麗に干した湯呑みを置いて、赤崎氏は居室へと戻った。赤崎氏はそれから二週間程居て、軈て御役御免となった。
それが先月の事である。そしてまた、締切に弱らされた私は、ついこの事を書いてしまっている。どうか恨まないでいただきたい。作家は始終書き物のネタに困り果てているので、飯の種を得るのに、最早書かずにいられる話は一つもないのだ。不自由の極みだ。 そう云えば先日、赤崎氏が、おはぎを作って持って来てくれた。私もチヨの目を盗み、こっそり台所に立って、小豆をせっせと濾したく思っている。