昭和初期ごろの設定で、 架空の文豪・桐堂葉市が新聞連載しているエッセイというていのお話。
[前編]
先日、私の許にとある読者から便りが来た。私が此の連載や、児童向けの冒険小説に掛かりきりなことへのご不満であった。併しその方が儲かるのであるから私としては如何(いかん)ともし難い。私は作品哲学のために清貧を貫くといった気骨のある人物ではない。金になる話を先ず受ける。私がやらぬ事にしているのは、私の意に沿わぬ力の一助とならんとする物は決して書かぬと其れくらいである。此れにしたって崇高なる理念というよかただの意地だ。私は子供っぽく未熟な人格で、凡そ見上ぐべき精神性は持ち併せておらぬ。ご留意願いたい。 それにつけても世の中は近頃どうもきな臭い。私は昨今の此の国の浮かれ具合が頓(とみ)に気に食わぬ。向うより多く人を殺したと国民総出で燥(はしゃ)ぐというのは、私には何か本質的な人の品格を喪った様(さま)に思えてならぬ。併しまあ、こんな事を愚痴愚痴云っているのは私の様(よう)な捻くれ者だけ、世の大勢はお祭り騒ぎだ。これで列強諸国に肩を並べた云々。手痛い勘違い。そう感じるのは私の心が捩じくれ曲っている所為(せい)であろう。矢張(やはり)生まれ育った家の環境がよろしくなかった。とはいえ、人を殺した数で列強とやらに加わるよりは、片田舎で竹でも編んでいた方がずっとましだと私は思う。 世迷い言は此の位にして、三青君の話をする。三青君はうちの書生である。新聞の誌面を借りて戯言(たわごと)を述べる此の場でも、何度か名前を出したものと思う。三青君は変わった姓だが此れは本名で「ミアオ」と読む。サンセイ君ではなくミアオ君だ。私の本姓も余り見ないが三青君はもっと見ない。 三青君はすっきり澄んだ面差しの美少年である。つやつやとした黒髪に、何とも不思議な青い目をしている。これが異様に青いのである。コバルトブルゥと云った具合だ。そうした目を少し隠す意図でか伊達眼鏡を掛けている。家の中では外しているが、外へ出る時はきっと掛ける。余談だが編集者のS君も伊達眼鏡を掛ける。賢(さか)しく見えるからだと云う。莫迦だ。 過不足の無い調った顔で哲学的な青い目を伏せ、静かに本など読んでいるから何とも神秘を纏って見えるが、それが如何(どう)して彼は仲々ふてぶてしい男なのである。凜とした見目に騙されてはならぬ。抑(そもそ)も読んでいる本からして、書店のカバーを外して見れば『エノク書』だったりするのであるから食えない奴だ(読者諸君は馴染みがないかと存ずるが、此れは※耶蘇(やそ)教の聖書のうち偽典とされた曰く付きの物で、悪魔について多く記してある)。根に持っている訳ではないが、家の主人を差し措き茶菓子を倍も食べる男の肝が太くない筈はない。おはぎの一件に限らず此れは毎度の事で、而(しか)も初めからだ。つまり、私は彼の見かけに騙されて家に置いたのではない。私は何処か趣味が悪く、彼の図々しさを気に入ってしまった。 三青君の交友関係は謎だ。余り他人と親しく交際をしている風にも見えないが、妙に顔が広かったりする。私が家を空けている間(ま)に勝手に友人を上げていたりもする。実家は古い呉服屋であるが、長男の彼は家を継ぐ気がなく、二親も其れを認めているとの事、そうした親の度量の広さが彼の人格を成すに至ったかと勘繰ってしまう。三青君の家にはもう一人男子がいるが彼も継ぐ気はなく、家に働く人の中から才の有る者を択び取り、長女の婿にするものと見える。 三青君と私が知り合ったのは彼の父上を介してであった。三青君のお父上は私のパトロンの一人で、なにくれとなく援助してくださる。豪放磊落な人柄で細かい事は気にしないお方だ。三青君とは内面については似た所を余り認めないが、外見については実に良く似ている。或る日、件のお父上が私を銀座のキャフェの二階、窓際の席に呼び付けて、珈琲を一杯お頼みになるとそれから直ぐにこう云った。 「先生、私の息子も少し文學をやっておりましてね。」 「はあ。」私は些か怪訝な面持ちで其れを受けた。 「先生の話も好く読むものだから、折角なのでお引き合わせしたく思っています。この後、お時間は。」 「ええ、暇ですよ。暇でない日は無い。」私は答えた。仮令(たとい)締切の当日であれど、物を書く気が起きる事は無いので畢竟(ひっきょう)常に暇である。 「よかった! すぐ其処に来ておるのです。呼んできますから、お待ち下さい。」 お父上は嬉しそうに云い、そそくさと席を立っていかれた。文學をやる息子と聞いて、正直を云えば私の想像は愉快な物とは云い難く、何を頼まれる事になるやらと憂鬱な思いであった。暫くして、キャフェの階段を誰かがとんとん上ってきた。目を遣ると、上等な着物を纏った華奢な体躯の青年が見えた。三青君であった。 「失礼致します。」 三青君は私の席の前で一つ礼をしたが、その両手は、カップと小皿で埋まっていた。手にした食器を卓へ下ろすと、彼は平然と向いに腰掛け、また会釈をした。私は三青君が置いた皿を見た。食べかけのケエキと珈琲であった。恐らく私が来るまで下で食していた物なのであろうが、併し、持って上がるかね? 「三青俊と申します。作品、いつも拝見しております。」 「ああ、そりゃどうも。」私はひょいと頭を下げて、それから彼の眼鏡を認めた。「伊達かい?」 「ええ、はい。よくお判りですね。」 「度が入っていないだろう。私は昔、眼が悪くてね。」 「成る程。私は眼が目立つのです。」 「ほう。」興が唆られた。「外してみ給え。」 彼の伊達眼鏡はキャフェの照明を反射し、顔を隠していた。お父上を思い浮かべて、若し親子が良く似ているのならばきっと目に快い顔であろうと私は期待した。果たして、眼鏡が取り払われ、現れたのは実に端整な顔立ちであった。だがそれよりも、なんという青い眼! 「ぎょっとしますでしょう。」淡々と三青君は云った。「一々驚かれるのも癪(しゃく)で。」 「なんとも、美しい色だね。」私はその時、人体の神秘に惚れ惚れしていたばかりに彼の不遜な一言を聞き逃していた。「視力は良いのだね。」 「ええ、度が要らぬ程度には。しかし余り明るい処は得意でないです。眩しくて。」 「眼が青いと、そういう事があるのか。」 「ええ。そうした支障があります。」 三青君はしずしず答えると、私の手元の食器を見た。 「つかぬ事をお伺いしますが。其れは一体?」 お父上が珈琲を頼んだ際、ついでに声を掛け頼んだものであった。「さあ、よく知らない。ガトォショコラと云ったか。」 「美味しそうですね。」 「君も食べるかい。」 「良いですか。」 「いいよ。」私は、彼の分ももひとつ頼もうとしていたのだ。併し、 「では、遠慮なく。」 彼は向いからフォークを伸ばしてさっくりと突き立てると、一口分を綺麗に削って、其の儘頬張った。私は啞然とした。三青君は泰然自若といったていでゆっくり口を動かし、ごくりと飲み込むと、一つ頷いた。 「濃厚で、大変美味です。」 私はまだガトォショコラに手を付けていなかった。涼しい顔で珈琲を飲むその青年に、私は愉快を覚えた。つまりいっぺんで気に入ってしまった。私は大概美人に弱いが、如何も、変人も好きなのである。 「家の手伝いなど、入り用では。」 故に私は彼がそう訊くと同時に「うちにおいで。」と云った。私は是非とも彼に来て欲しくなっていた。三青君は、あっさりとした承諾に少しく目を丸くしていたが、軈(やが)て「左様ですか。」と頷き、慌てるでもなく段取りを決めた。
[後編]
そんな具合に彼が住み着き、暫くした頃のことである。 文明開化が起って早くも半世紀が近くなっている。街の其処此処に西洋の人を見かける様にもなった。故に、三青君の友人に金髪碧眼の西欧人がいたとて何らおかしくはないが、併し突然、戸口に来られると、矢張少々驚きを覚える。 「桐堂先生ですか。」 実に滑らかな発音であった。彫りの深い顔貌(かおかたち)から、まるで自然な日本語の出てくることが不思議であった。私の背も此の島国では非常な窮屈を感じるが、併しまあ彼の背丈の高いことと云ったらない。鴨居を潜るのに腰から折らねば間に合わぬのではなかろうか。西洋の人は総じて大きいが、彼は中でもとびきりと見える。 「如何(いか)にも、然うですが。」 彼を見上げて答う。その時ようやく、彼が英海軍の制服を着ている事に気附いた。 「先生の書生に、シュンというのが居るかと存じます。」 「居りますよ。今はちょっと出ていますが、直(じき)戻るでしょう。お上がりください。」 「では、失礼して。」 私はただ三和土に降りるのに下駄を突っかけただけであるから、直ぐに上がることができたが、彼の場合は然うは行かぬ。見れば、膝には届くまいが、其れでも脛の半ば程までは長さのあるブーツであった。紐を交差して締め上げる造りで、脱ごうと思えば一々上から緩めていかなくてはならぬ。およそ着脱すると云うことを想定しておらぬ出来である。然ういえば、西洋のひとは靴のまま家に上がってしまう訳だが、ああした靴を履くのであれば、自然そうした風習となろう。 彼は三和土に跪き、丁寧に紐を緩めて行った。蹲っていても尚大きい。そんな彼を見下ろしていると、此の様な置物があれば狭い家の何処に置いたものかなどと云う思いが不図(ふと)過った。併しそんな置物を、買う予定も貰うあてもまるで無い。何故そんな事を考えたやら。 「お待たせしました。」 十分に紐を緩めると、彼は三和土の縁に腰掛け、すっぽんと靴を抜き取った。其れから縁にピッタリと附けて並べて置いた。 「いいえ。甘い物でも?」 「お構いなく。」 「お嫌いじゃなけりゃ。」 「では、少し。」 彼は甘い顔立ちに見事な笑みを浮かべてみせた。私も幾ばくか留学をしたから多少の英語は話せるのだが、彼の日本語のほうがずっと達者である。三青君は彼と如何(どう)して知り合ったのか不思議でならない。私の気持ちを知ってか知らずか、彼は微笑んだまま私の後に附いて来て居間へ入った。座卓に就くと軍帽を取り、頭を下げた。 「申し遅れまして。」 その後に告げられた姓名は何とか聞き取れた。イニシャルはE・Sであった。 「桐堂葉市と申します。遠い所を、ご苦労様です。」 「いえ、軍務の経由地なのです。長旅には違いないですが。」 「そうでしたか。日本にはいつ迄。」 「あと四日程は。週が明ければ出ます。」 如何に欧米の大艦隊と言えど、船内の広さは高が知れている。海軍に此の背丈というのは不便の多い事だろう。私は将来を嘱望されているに違いない此の青年と、我が家の偏屈で奇矯な若者が如何いう具合で親交を得たか気になって仕方がなかったが、本人も居ないのに詮索するのは流石にと思うと、何を聞く事もできないのだった。私にも妙な処があって、面の皮を厚くして身の廻りの者のプライヴェエトを遠慮会釈なく書き晒す割に、こうした場合には恥を得る。それなら例えばX氏の事などは書かねば良かったでないかと思うが、併し其れと此れとは別で、独り文机に向かう時にはええい何でも書いてやれとばかりに開き直ってしまう。あれを読んだX氏には随分恨み言を云われた。さりとて彼にも痛む脛が幾らでもあるのであるから、実は私は平気でいる。 チヨがゼリィを供した。有名な羊羹屋が近頃手を出した代物で、レモンとシロップで味付けた西洋風の羊羹である。ぷっくりとした半球型で、透き通ったゼラチンの合間に濃紺や青の帯が見える。面には金粉が散らされ、さながら夜空の様である。匙を入れるのが惜しい気がして私は暫し眺めていた。 「美しいですね。」 向かいの彼が呟いた。私は何と無く顔をあげ、彼を見据えた。 「ええ、いい出来です。味はどうだか知りませんが。」 「夜空の様ですね。宵の様でもある。薄暗くなった部屋で見る彼の瞳を思い出します。光が射さない場所ですと、丁度、こんな具合だ……。」 彼は皿を目の高さに持ち上げ、矯めつ眇めつ眺めた。誰の瞳の事であろうかと刹那考え、直ぐに、あの三青君の事だと気附く。彼の目は昼の明るさの中では恐ろしい程はっきりと青いが、確かに暗がりで眺めると、宵時の空を思わせる。そう云うE氏の瞳の色は、緑がかった爽やかな碧で、成る程三青君の色とは随分異なる。 「言われてみれば、似ている。」 「失敬。つい、思い付きまして。」 「いえいえ。得心致しました。まるで……。」 私は終いまで云うのを辞めて口を噤んだ。あの折せっかく留まったのにここで云っては元の木阿弥であるから、詳しくは差し控えるが、既(すんで)の処で辞めにしたのは私にしては賢明である。其れでも、私は最前までとは異なる意味で、匙を立てるのに躊躇いを覚えた。 「戴きます。」 すると、向かいの彼が云い、容易く匙を滑らせて一掬い取り口へ運んだ。青く透き通るゼリィが彼の厚い唇に吸い込まれ、つるりと消えた。 「さっぱりとして、美味です。」 E氏は微笑んだ。西洋の人は顔の造作も、動きも随分大きいと見えるが、有るか無きかの微かな笑みを彼は目元と口元に浮かべた。 「大海原の只中で、空を見上げた事はありますか。」 E氏の問いに、いえ、と私は首を振った。 「皆が寝静まった夜、こっそり抜け出して甲板に寝転ぶと、視界には空しか映らない。人の明かりは何処にも無いから、そこら中に星が見える。うるさいくらいです。正直を云えば、私は星も月も、余り好きではない。ちかちかと眩しくて、眠れやしない……」彼はまた一掬い、ゼリィを匙に取った。「完全なる暗闇というのは、案外、世の中に無い様です。それは人の頭の中にしか無いのかも分からない。可笑しな事ですが、陸よりずっと暗い筈の夜の海の真ん中で、僕はいつも、暗闇が、慕わしいのです。恋しい位。」 私は、家主として、家に居る者の訪問客に素性や関係を問う事は、さして無作法でないのじゃないかと不図思ったが、今では最早識らずにおきたい気がしていた。知らずにいれば、幾らでも好き勝手、想像が出来るからである。彼がゼリィに匙を入れる度、そうして其れをつるりと呑む度、私は曰く言い難い、不穏な愉しみを覚え、またそれが、全くの見当違いである事を明るみに出すのが嫌で、其の儘何も訊かずにおいた。 私とE氏が食べ終える頃、散歩に出ていた三青君が戻った。私は彼に席を譲って、奥の書斎へ引っ込む事にした。 去り際、三青君の声がした。滑らかな英語であった。「どうだい。変な人だろう?」 君が云うかね。憤然としたが、今日許(ばか)りは言い訳が利かぬ気がする。E氏はそのあと一時ばかり居て、やがて基地へと帰って行った。
後日、私は三青君に、何気無い風を装って彼の事を尋ねてみた。すると三青君は私の目の奥を覗き込む様にして笑い、一言答えた。 「僕の太陽ですよ。」 彼の背後には宵の薄闇が広がっていた。秋虫の音が聞こえていただろうか。 それからひと月ほど経って、やけに月の明るい晩に、私は不意に思い出したのだった。今頃、E氏は大海原で、星月の光に目を眇め、真っ青な闇を待っているのであろうか。その晩の月は何時(いつ)か彼が云っていた様に余りに眩しく、私は迚(とて)も眠れ無かった。暗闇をくっきりと刳り抜き却って際立たせる様な冷たい光を恨めしく見上げ、私は原稿用紙を取った。冴え冴えと澄み切った、私の眠りを奪う白銀が、併し、私は嫌いでは無かった。 あの大柄な太陽は夜をきれいに食べて帰った。夜のほうも陽が恋しいか、よく真昼の日の下へ出て、眩しいだろうに空を見上げている。
(※耶蘇教…キリスト教のこと)
2020年10月9日に前編、11月13日に後編をFANBOXにて発表。