るい、とひとこと、夫は言った。私はそれを黙殺し、畳んだタオルをソファの座面に積む。私の背後にあるソファの向こう側にダイニングはあって、彼が自分で温めた味噌汁に口をつけたのだろう。この人は、レンジも満足に使えない。  正面のテレビの横にかけられたアナログ時計を見遣る。夜の十時三十分。 「居ますか?」  唐突な声に肩が跳ねた。弾かれるように彼を見て、小声に問う。 「……いいんですか? 普通に話して」 「構いませんよ。霊体に、生者の声は聞こえないそうです」 「そう、……居ます。テーブルに。いま夕ご飯を食べてるみたい。残業があると帰りがこのくらいで、私の作ったご飯は冷めていたんです。一人で温めて、食べていて」 「そうですか。あなたはここで家事を?」 「いいえ。本来は寝てました。帰るのを待つ義理もないし」 「それはそうですね」  彼は、——頼んだ〝業者〟が送り込んできた調査員はそう言って、ダイニングに目を向ける。「どちら側の席に?」 「窓側です。あら、しめ鯖」 「メインですか?」 「ええ。しめ鯖を出した日なのね。どうでもいいことですけど」  夫が死んで二週間。法要も終わり一息ついたころ、急に夫の霊体が部屋に現れるようになった。夫は残業後帰宅し、冷え切ったご飯を温めて、食べてから寝室へ消える。翌朝にはいない。生前は、顔を合わせたくないがために早く寝付いていたけれど、私は本来は夜型だ。せっかく独りを謳歌しているのに、鬱陶しくてしょうがない。  それで〝業者〟の、アフターサービスを頼んだ。というより、こういうケースには対応していただけるのかと問い合わせたのだが、初めてのことなので、ひとまず現状を確認させてくださいと言われ、その二日後に調査員が来た。そして今、調査員の彼は夫が座る椅子の方向を眺めて、首を傾げている。 「そちらに、ご伴侶が」 「ヤスフミといいます」 「ヤスフミさんが。すみませんね、僕自身は霊感とかないもんでして」 「そちらに除霊とかできる方はいらっしゃるんですか?」 「さあ——多少霊感のある同僚はいますけどね。霊の祟りなんて本当にあるなら、僕らが全員無事に生きてるのがおかしいでしょう? 気にしたことがなくて」  それはそうだ。しかし事実として、今そこで夫の霊はくちゃくちゃと音を立てながら白米を咀嚼しているのだ。 「やっぱり、難しいですか。除霊も合わせてお願いするなんて」  自分でもふざけた話だと思ったのだ。しかし事情が事情だけに、下手に外部に頼むこともできない。 「うーん……」すると意外にも、調査員の彼は検討をして、「業務内容自体にさほど差はないような気がするんですよ。邪魔なものの始末ってのが僕らの仕事なわけでしょう。霊だって邪魔なら対象ですよね」 「邪魔じゃない霊っているんですか」 「さあ? 霊を見たことがないんで」  首を傾げながら彼は手帳を開き、書き留める。ここまでの会話から、いったい何をメモしたというのか。 「一度、持ち帰って検討します。なんにせよご連絡はするので」  調査員の彼がいうと同時、ダン、と乱暴に箸を置く音が聞こえた。食器をガチャガチャと鳴らし、わざとらしい足取りでシンクへ下げる。食べ終わった皿を、洗わなくてもいいから、せめてシンクに下げてくれないかと頼むと、夫は腐った牛乳でも飲まされたような顔をして、以後まるで見せしめのように騒々しく皿を下げるようになった。言わなきゃよかった。話さなきゃよかった。  会わなきゃよかった。——彼さえ、居なければ。 「それじゃ、失礼して」  廊下を歩いて寝室へ去っていく夫に重なって、調査員の彼が頭を下げ、一度夫に追い抜かれたのをまた追い越して出て行った。ドアがしまる。寝室の、木製のドアもバタンと閉まる。  寝室は共用だった。夫が隣へ入ってくる、気配の、体温の不快さが、蘇って身の毛がよだつ。  独りきりのリビングで、私はため息をついた。しばらく、放心したままで、そのうちまたため息をついて立ち上がる。さっきまで夫の霊がいたテーブルを素通りし、キッチンへ入って、ビールを取る。  グラスへ注ぎ、おつまみのスナックを小皿にあける。晩酌のセットを持ってソファへ向かい、テレビのスイッチを入れた。夫がいつも小馬鹿にしていたドラマを流す。ビールを呑み下す。  アルコールのおかげだろう、少し愉快になってきた、——虚しい当てつけに死後を費やす夫を尻目に生を謳歌する。この生活も、悪くないかもしれない。


2023.06.25:ソヨゴ