ぎょにくさんのキャラクター、守月さんをお借りしています。 昭和初期ごろの設定で、 架空の文豪・桐堂葉市が新聞連載しているエッセイというていのお話。
いっとき、家で書き物が出来ず、専ら外に出ていた事があった。出来ぬと云っても大した訣でなく、ただ預りの犬に気が行って、少しも仕事に身が入らないというだけである。同じ屋根の下、愛らしい柴犬が丸まって待っているかと思うと、今書いている事件の顚末など如何だって良い様に思われ、一文字も書きたせぬまま炬燵へ戻ってしまう。家を出るより外ない。 愛しのごんを預けて行ったNが、美人の女給が居るというので予てより薦める喫茶店があった。私は、美女が如何も苦手で、其方に興味は湧かなかったが、其処の珈琲ゼリィが随分美味いらしいのは気にかかり、折角なので足を延ばしていた。あんまり近くだと、直ぐに帰ってしまいたくなって意味が無いという事もある。Nご推薦の喫茶店は銀座の和光の辺にあり、我が家(いえ)からはそこそこの距離だ。 その日も、昼前に訪れて私は奥のテーブルを取った。原稿を広げる都合から、周囲に覗き込まれる虞(おそ)れのない席が望ましく、右翼に当たる壁際の、他の席から少し離れたところを定位置としていたのである。コの字型の店内は明るく、店先の全面のガラスがよく日光を取り入れて、窓際の席は愉しげな婦人たちで埋まっている。午前中の店内はさほど混雑していない。私は右手の壁を見て、黒板に書き出されたお勧め品など眺めていた。 「御注文は?」 傍らに立った女性から甘い声がした。「もしや」と私は少々気鬱に傍(はた)を見上げた。矢張りである。 「それじゃ珈琲と……焼き菓子を幾つか。」 「はあい。クリームとお砂糖は?」 「砂糖だけ。どうも。」 「承りました。」 ウエイトレスがニコリと笑う。件の美人女給だった。 私は具合が悪かった。美しいものは無論好きだ。だが、美女だけはいけない。美女には、良い思い出がないのである。彼女はまた我が母と系統を同じくした顔で、益々もって戴けなかった。いつの間にやら眉が寄り、それを彼女が見咎めた。 「先生、お加減が悪いの?」 「いえ、」と、答えたところで私はまた彼女を見上げた。「先生?」 「あら、まあ。失礼しました。でも先生、作家さまでしょう? 怪奇小説の。文庫を持っています。」 成る程其れで私の顔を知っている訣だ。著者近影の仕業だ。 「読者さんでしたか。それは失敬。でも、貴女、趣味が悪いよ。私の小説なんて読むんじゃ。」 「そうですか? ええ、まあ、確かに、先生のはチョット血腥いけど。でも其処がわくわくするんですよ。殺人鬼がひとの喉笛を切り裂くとこなんか見事だわ。それに先生の話って、そう甘いこと行きませんでしょ。残酷だって云うひともあるけど現実ってそうじゃありません? うわついた絵空事ばかり書かれたって虚しいわ。ね、先生?」 弾むように話す彼女を意外に思った。ここのとこ、私は此の店に日参していて、ゆえに彼女が注文を取りに来るのも初めてではない。当たりはいつも柔らかだったが、とはいえ職務に関りのない無駄口を叩く様子でもなかった。もしや、私が偏屈なのを見て取り、話し掛けたい心持ちを今日まで抑えて来たであろうか。願わくば、其の儘ずっと堪えておいて欲しかった。併し一度転がり出した球はなかなか止まらない。彼女は伝票を胸に抱えて、まだ話す。 「先生の書く怖いひと、本當に怖くて、いいわ。ああいうひとがウスッペラだとつまりませんもの。興が醒めてしまう。私、いっつも感心するんですよ。ああいうひと、先生の頭の何処から出て来るのかしらって。この前の短編も、彼れ、凄かった。じわじわ人を蝕む様な、黴みたいな、厭な女でしたわ。もしかして——」 と、其処で彼女は言葉を止めた。気になって私が片眉をひねると、彼女は切れ長の両の眼を、にゅうっと曲げた。偽物じみて黒い眼だ。いや、何か、被さったような—— 「ご存じなんですか? ああいうお人。まるで、身近にいらしたみたい。」 私は目を見張った。驚きが、軈(やが)て薄らと不快に変わる。私の表情をとくと見て、彼女は華奢な手を当て、笑う。 「あらいやだ。立ち入った事、お伺いしました。失敬、失敬……」 フフ、と息を零し、踵を返す。何事もなかった風に彼女はさっさと厨房へ消えた。私は其の背を半ば追い、それから深いため息を吐く。矢張り、美女はいけない。碌な目に遭わない。 自然に床へ落ちた視線が、何かを見留めた。身を乗り出して拾う。 一筋の毛髪であった。白い髪だ。 しかし、白髪の様ではない。白髪というのは尋常の毛髪と違ってごわごわとしている。乾燥し、硬くなった抜け殻の感じだ。ところが拾った髪は、ツヤツヤとしてコシがある。指で先を曲げてみるとよくしなり、ピンと跳ね返る。どうも元から白い毛のようだ。S君の髪などこんな具合だ。 私は、訝しんで見詰めた。いったい誰の髪であろう。
数日後、客の絶えた折、件の美人女給が盆にデザートを載せて現れた。とんとテーブルの中央に置き、当然の如く向かいへ座る。二人掛けの丸テーブルであるから向かい以外に腰掛けようがないが、私はチラと目を挙げ、無言に訊ねた。 「先日のお詫び。」彼女は云う。「不躾な事しちゃいました。」 応えず、私はデザートを見つめた。珈琲ゼリィである。来るたびにという程ではないが、一度ならず注文していた。ぷっくりと筋の入ったつややかな漆黒は、ほんのりと光を受けて深い褐色を透かしている。頂点には固く絞った生クリィムが飾られて、いちどきに口に入れるとよく溶け合い、苦みを少しだけまろやかに仕立てる。 私は卓からスプーンを取り、端の方を掬った。そうして、頂のクリィムをほんの少し載せた。出来上がった匙を、向かいの席へと黙って伸ばす。 「あら。」 女給は口許に手を当てた。「くださるの?」 私は彼女の顔を見なかった。 「以前話した時の事だがね。」 「ええ、はい。」 「君が去った後、床に髪が落ちていると気づいた。」 「まあ。私の?」 「如何かな。君は黒髪と見えるが、其の髪は白だ。」 其処でようやく、私は彼女を見た。彼女は私の懐を刺す様な言種をしたあの時とおんなじ顔で、ただ口許を隠し続けている。 「白ですか。それじゃ違うみたい。白髪って云う歳でもなし……」 「君の歳は知らないが、そもそも彼れは白髪じゃない。……まあいい。序(つい)でにもう一つ、気に掛かる事があってね。」 「なあに?」 「何故瞳まで染めている? 其の色、本當じゃないだろう。」 其の途端、彼女はほのかな驚きに両の目を開いた。 「……如何して」 私は微笑した。滑り落ちぬ程度に匙を傾けて、黒いゼリィを示す。 「仕組みは分からんが、何か被せ物でもしているらしいね、其の眼は。——人の眼は、実に複雑なあやがある。仮令(たとい)漆黒でも其の漆黒には幾重にも筋が刻まれて、吸い込む様な小宇宙を湛えているのだ。膜一枚、貼ったところで完全に誤魔化せると云うものじゃない。とは云え、よく出来ている。この距離でなきゃ、判るまいよ。」 先日見上げた際、私は微かに其の違和感に袖を引かれた。併しこの距離で、しかと見据えてやっとこさ確信し得たのである。髪と違って目を染めるなど聞いた事も無いもので、よしんば違和感を得ていたところで大抵の者は気のせいと思う。本気で理由を考えるのは、私の様な変わり者くらいだ。 彼女は、ほのかな衝撃の表情のまま暫くいた。そのうちに、また例のにゅうっとした笑みを目許に浮べる。私が差し出していた匙へ、彼女は口を近づけた。口許を覆っていた手で私の匙持つ手を掴み、ぐいと引き寄せる。 赤いくちびるに匙が滑り込む。つるりと抜き取ると、彼女は上端に付いたクリィムを、舌で舐めた。 「左利きですのね。」云いながら、曲げていた背を元に戻す。 「あゝ。色々と不便でね、右も使える様にしたが。」 「しくじったわ。私ったら。」 彼女は偽物の黒い眼で、ひどく愉しげに此方を覗いた。 「忘れていました。先生は、……推理小説も、書くんでしたね。」 私は、歪んだ笑みで答えた。片側だけを引き上げた、厭味な頬笑みである。 幾らかのあいだ私を覗き、それから彼女は盆を取ると、スッと立って、場を去らんとした。去り際、不意に屈み込み、私にそっと耳打ちをする。 「どうか、内証になさってね。先生。」 彼女はまた何事も無く店内へ戻り、じきに消えた。其の後程なくして私はあの喫茶店に通わなくなり、爾来、彼女を見ていない。いまも働いているのか、いないのか。何故彼処(あそこ)に居て、何故偽りをしたか。何(いず)れも私には知る由もない。 不思議が一つある。彼女の黒髪は、見事に染め上げられていた。あの髪の何処から、如何して、地髪の落ちる事が有ったろう。
彼女の去ったあと、私は、同じ匙で己の分を掬った。クリィムを載せ、ひと口に頬張る。 冷えたゼリィが滑り込む。彼女の含んだ匙だけが、其の咥内の体温を未だ孕んで、生温かった。
2022.12.28.:ソヨゴ