昭和初期ごろの設定で、 架空の文豪・桐堂葉市が新聞連載しているエッセイというていのお話。 今回の話には、家庭内暴力、フラッシュバックを示唆する記述があります。
何も此の暑い最中に祝賀会などする事はない。然し文月に賞が出て、さてお祝いをしましょうとなると如何も此の時期になるのである。普段なら夏の盛りには一歩も外へ出ない私も、自分の書き物が何かしら戴いたとなると我儘を云えぬ。三青君を代理とするのは無茶であろうかと過ぎったが、本人はすげない答だった。 「先生、外をご覧なさい。他人の用を引き受けて外出なんぞ、余程の物好きですよ」 私は気重に外を見遣った。陽炎に地が揺らめいている。 「君は偶には私の役に立とうとしたりせんのかね」 「他の頼みなら考えますが。だいいち気詰まりですよ、当人でないのに、受賞のお祝いにドウモドウモと応えるなんぞ。したかありません」 人の団扇を持ち出してきて寛げた襟を扇ぎつつ、彼は胡座の恰好で首だけ向けて、私に云った。私の知る限り、斯うも態度の太々しい書生は復と見ぬ。私は諦めて、いそいそ自分の書斎まで他の団扇を取りに戻る。いちばん具合の良い物は三青君に盗られている。 昼前にS君が来た。私がすっぽかさない様、迎えに訪れたのだ。 「おや。一応着替えちゃいるな。観念したか」 「私は行かぬとは云っていない。行きたくないと云ったんだ」 「如何違うんだ?」仮にも文藝の編集であるのに感性の無い。「まあいい、行こう」 「車は捕まえてあるんだろうね」 私は念押しの積りで云ったが、思いがけない答が返った。 「車? タクシイか。未だだよ」 「何だって?」 私は思わず仰け反った。此の茹だる様な熱気にあって一歩でも日向を歩くなどとは考えられぬ。彼とて道中、日射に刺されて来ただろうに。 「俺は電車で来てるんだ。此方(こっち)の通りで捕まえた方が良いだろう? 安上がりだ」 「ならせめて捕まえてから迎えに来んか」 「お前なあ、こんな込み入った処に乗り入れさせろって云うのか。此処まで来るは良いが、戻るのが容易でないぞ。えらい遠回りだ。俺達が出て行くほうが良い」 効率を思えば然うなる事など此方とて承知して居る。S君は異常な猛暑に思う処は無いであろうか。凍てつく様な美貌の故に、感ずる温度まで低いのか。理解が及ばぬ。 「何、すぐ捕まるさ。もう出よう。あんまりちんたらしてられんぞ」 ところがS君の思う様には行かなかった。彼此(かれこれ)十数分、我々は辻に立って空車のタクシイを待つ羽目になった。漸く捕まった一台に乗り込み、これ見よがしに団扇を扇ぐ。けれども彼は涼しい顔だ。 「いや、暑いな。陽を遮って此れとは」 「まったくです」運転手が返す。「堪えますよねえ。こんなの初めてですよ」 私は泣き言を云いたかった。平生の夏さえ難儀するのに、稀に見る酷暑という日に態々出掛けるなぞ正気でない。炎天下の待ち惚けを食って既に体力の尽きた私は、文句も言えず席に凭れる。 S君はそんな私を面白がって覗き込んだ。 「矢張、引き篭もりが良くないな。学生の頃は未だ骨があった」 此の男、——普段は要らぬ心配ばかりし私を煩わせる癖に、今日に限って私の疲弊を軽んずるのは如何いう訳だ。もはや睨む気も失せて、私は団扇を投げ渡した。目を閉じると、両の腕を組む。 「お前が俺を連れ出したのだ。扇ぐ位の世話は焼け」 S君からの返事はなかった。然し間もなく風が送られ、汗に濡れた髪が、ぱたぱたと揺れた。
祝賀会は都内のホテルで開かれる事となっていた。流石に館内はひんやりとして、金の有る場所は気温からして違うものかと思ったが、かと云って居心地が良いかと云えば然うではない。三青君などは此の様な処に気後れする事も無かろうが、如何も私は貧乏臭く、所在無い気がするのである。 出版社の人間にも映画会社の人間にもお愛想一つ云えない私は先ず人に会わぬ事を欲する。ホテルに着いてすぐ、S君の目を盗むと私はそそくさと彼の視界から消えて、ホテル内をうろうろした。何はともあれ滋養の供給、体力の補充が急務である。疲れた時に口に入れるなら、其れは、甘い食べ物に限る。 実は暑い中であっても温かい物を摂るが正しい、と何処かの雑誌に読んだ事があったが、そんな戯言は考慮するに値せぬので私はラウンジへ出掛け、席に着いてすぐ「冷たい物を」と頼んだ。給仕がメニューの説明をしようとするのを手で制し、「済まないが疲れ果てていて、検討をするに能わない。冷たくて、甘い物なら、何でも宜しい」と伝えた。誠に失敬な客だ。 然し給仕はいきり立つでなく「畏まりました」と腰を折り、洗練された仕草でメニューを片付けると、席を去った。私は此の見事な所作、贅を凝らした空間の其の一部である熟練に触れて、快さを受け取れぬ自身の捻くれ方を嘆いた。要するに、私は己が、斯うした贅沢に適う人間であるか否かが疑わしいのだ。其れで勝手に後ろめたくなり、胸苦しさを覚えている。給仕たちとて極めたサーヴィスを受け取り、素直に自分たちの価値を認めてもらう方が良かろう。私の罪悪感は、誰にも得がない。 窓辺の席であった。一面のガラス窓から中庭の景色を眺めていると、件の給仕がこれまた丁寧に盆を隣のテーブルに置き、皿だけを私にサーブした。ガラスの器だ。正方形の板の四辺が反り返ったふうな形で、水泡や曇りの具合を態と残してあるらしき処は氷の器の様にも見える。中味はアイスクリイムであった。その色からバニラかと思うが、独特の香りがしてこない。良く見ればバニラビーンズの黒い粒々も見当たらず、生成りというより真白である。 「此方、日本酒を使ったアイスクリイムです。お客様、アルコオルは」 何を訊かれたものか刹那分からず、私は顳顬を揉んだ。思った以上に今の私は使い物にならないらしい。 「ええ、平気です。ありがとう」 答を聞くと給仕は再び腰を折って去った。ごゆっくり、と云われると、却って尻の据わらぬ思いがしてくるのは、如何した事だろう。 私はスプーンを手に取った。アイスクリイムの周りに、様々の果物がカットされてある。併せて食せと云う事だろう。一先ず其の儘食べてみるかと、私は匙を入れ、ひと口含んだ。 正に、日本酒である。此の芳醇な甘(うま)み。 アルコオルの厭な処が悉く除かれてある。麹の滋味が仄かに香る複雑な奥行きの甘さが、クリイムの滑らかさで以てするりと咽喉を下りて行く。熱った体に心地好く、私は続けてふた匙を食べた。心身の恢復を感ずる。 其処で漸く、元となったであろう日本酒の如何(いかん)に思い至った。彼(か)の銘柄は、私の裡に或る記憶を自ずと浮かび上がらせた。
幼い頃、父は酒瓶で母を殴り、母は同様に私を撲(ぶ)ったが、早くから字が読めた私は、貼られたラベルの墨書で何時しか其の名を覚えて行った。変った読みをするものは違う音に憶えていたりもしたが、中に一つ、字それ自体からして覚え得ないものがあった。そもそも其の瓶の登場も一度か二度の事であり、も少し多ければ記憶出来たやも知れぬ。 長じて酒を呑む歳となり、或る宴席に其の酒が出た。瓶を見た時、私は不意に、其れがあの頃の如何しても読めない酒瓶であると気付いた。疾うに酒の名も、其の味も、知っていたにも拘らずである。 私の盃に注がれた其れを、私は呑んだ。芳醇な甘み。以前の味と変りなく、然し私の脳裏には幼少の頃が閃いていた。酒を呑み、酒席を囲う己が、何だか不思議の様に思えた。畳に転がる幼少の私が、そんな私を遠くから眺めている様な気がした。其の後の酒宴の成り行きを、私は、余り憶えていない。 ぼうっとしていると溶けてしまう。私は早々に立ち戻り、手の内の匙を持ち直した。端の木苺を掬い取ると、アイスクリイムを同じ匙に載せる。実に良い。酸味がきゅっと利き、異なる食感も歯に愉しい。 ふと、私は満足が心に滲みているのを感じた。あいまいな後ろめたさが解け、ただ贅沢の有り難みが胸中に広がっている。円熟。そんな言葉が浮かぶ。目を挙げれば空間の美しさがとんと胸を衝き、私は己の今いる場所が何処なのか、真に悟ったと思えた。而して此の場所に在ることも全く自然であると覚えた。何はともあれ、良くぞ、此処まで来たと。 「孝一」 呆れた声が聞こえて来た。見遣ると、憤然たる顔でS君が店の入口に居る。 私は無言に手招いた。S君は肩で溜息を吐き、ずかずかと席まで踏み行ってくる。 「何処へ行ったかと思えば。何を優雅に氷菓なんぞを食して居るんだ」 「実に旨い。S、君も食べたら如何かね」 腰を上げる気配の無いのにS君は腕を組み、私は平然と食事を進める。孝一、と復も聞こえてきそうな叱言を遮り、口を開く。 「来て良かった」少し考えて、続ける。 「私は自分を誉めて遣りたい気がしたよ。良く此処まで来たと」 S君は私をじっと見つめた。ややあって、勝手に椅子を引くと、向かいにどんと腰掛ける。 「全くだ。良くぞ、生き延びたよ」 通りかかる給仕を呼び止め、私を指して「同じ物を」と頼む。私は応えず匙を進めた。内臓の冷えが無かったらもう一皿でも食べたい位だ。S君の皿が来たなら、ひと口盗ってしまおうかしら。
向かいの彼を眺めると、行きの車内で云った言葉がまたふと私の胸を衝いた。けれども屹度、帰る頃には、脳裏を去っているだろう。
2022.08.28:ソヨゴ