昭和初期ごろの設定で、  架空の文豪・桐堂葉市が新聞連載しているエッセイというていのお話。


柴がうちに来た。柴というのは犬の柴で、名は権之助と云う。薄茶に白の柴である。毛はみっしりとし、少し固い。頬のあたりは実に柔かい。黒目は丸く、その目で以て声を掛ける者を一心に見る。尻尾がよく動く。小さな足でしっかと立ち、眠る時には四肢を投げ出す。その様にして縁側に寝ている。日が暮れると、炬燵へ寄って、誰か家人の膝の上に来る。

作家仲間が取材旅行に東北へ行くと云うので、暫し預かって貰えぬかと頼まれ、渋々引き受けた。断って置くが私は犬猫が嫌いな訳でない。何方(どちら)かと云えば好きが過ぎる。詰まるところ、柴など家に居ると、私は仕事が手に付かない。  考えてもみ給え。あいくるしい柴が傍に居て、誰が労働をする気になろう。またこの権之助が人懐こく、家の者に構われると実に嬉しそうにする。反対に傍を離れると、首を下げ、尻尾を垂れ、忽ちしょぼくれる。胸が痛む。書斎に置かれた白紙の原稿は最早物の数でなくなる。斯くして、私は玩具を拾い、ちょいちょいと構い出してしまう。 「だから止めろと云うたのに。」と、S君は顔を顰めていた。 「お前は元来人よりも畜生が好きなのだから、愛らしい犬など家に置けば、人間社会が丸ごと如何(どう)でも良くなる事は見えていたろう。」  先刻承知である。其れ故に今まで飼わず来たのだ。此方(こちら)は涙を呑んで断ち、野良を慰めにして来たというに、そらたんと味わえと預けていったのはNである(此のNは私小説家で、噴飯ものの色恋沙汰ばかり書き散らしている。銀座のキャフェの女給に刺され、入院先の看護婦のかんばせに文句をつけていた屑と云えば、思い出す方もあろう)。  そう云うS君は居間の炬燵に転がり、傍らのごんを構っている。ごんとは権之助の事である。当初は律儀に権之助と呼んでいた私だが、じきにも少し親しくなりたい気がして、馴れ馴れしい口を利く様になった。ごんは愛称で呼ばれてもよく応え駆け寄って来る。その際の私の顔などは迚(とて)も他人様にお見せできぬ。S君は犬を前にして正気を保ち得る人非人であるから、腹を見せて寝そべるごんをおざなりに撫で、もう一方の手で卓の煎餅を摘んだ。甘醤油の濡れ煎餅で、Nがごんを置き去りにする際、前金の様に持ってきた物だ。 「N先生はいつ戻るんだ?」 「さあね。取材の捗りによろう。どうせ向うの芸者でも引っ掛け、次作のネタを育んでおるに相違ない。二度と帰って来なければ良い。」 「其れじゃ困っちまう。」S君は煎餅を噛み切り、呑み込んで又口を開く。「お前がいつまでも仕事をせんし、権之助も寂しかろう。なあ?」  呼び掛けると、ごんは瞬時に起きて、濡れた鼻をすんすんとさせた。当然である。犬の鼻は人の何倍も利く。其の犬の鼻先に甘辛いお菓子など掲げて、鬼の様な男だ。ごんが哀れになった。  併し、ごんに煎餅は遣れぬ。ごんには長生きして欲しい。Nよりも長く生き、我がうちの子になって欲しいのだ。其の為にNを葬ると云うのもひとつ手だなと思っていると、S君が笑いながら煎餅を持つ手を高くした。 「此れはいかん、お前ンじゃない。食ったら腎臓がやられるぞ。」  ごんはきゅうん、と鳴き、納得が行かぬか、S君の顔をぺろぺろと舐める。 「おい、おい。何だ? 屑でも付いているか。」擽ったげに顔を逸らし、ちらりと自身の手を見上げる。「まさかなあ。濡れ煎餅だ。顔には何も付いとらんぞ。」  私は些か面白くない。 「ごん。おいで。」  呼ばうと、ごんは舐めるのを止めて振り返り、こちらへ寄って来た。膝を叩けば、私の胡座の内に収まる。すぐさま機嫌を直した私はごんの顎をわしわしと撫でた。ごんは快げに目を細める。 「日がな一日そうして居るのか?」 「他の事はする気にならん。」 「参ったな。お前次月に、短篇をひとつ載せなきゃならんぞ。ネタくらいは見つけているだろうな。」 「さっぱりだね。今の私には、柴の尻の事くらいしか書けん。」 「新聞の方はそれでも良いが。」  S君は呆れ顔をした。新聞の方とは乃(すなわ)ち此のエッセイの事だ。 「Nがごんを預けたが為に此の有様なのだから、Nに代原を書かせたらいい。ごんの居る内は、私はごんを優先するぞ。何につけても先ずごんありきだ。」 「作風が合わんだろうが。うちの読者は妖気漂う怪奇事件が読みたいので、粋人の雅な恋愛が読みたいのじゃない。必ず上げてもらうぞ。」  大きく眉根を寄せた彼は残りの煎餅を口に収めた。にちにちと其れを噛みしめて、指についたたれを舐めると、ふと云う。 「併しお前、そうも可愛がっちゃあ、別れる時さぞ寂しかろうな。」

云われるまでもない。私は其の事実から必死に目を逸らせて来た。けれども、終りは来るものである。  遂に其の日が訪れた。Nが昨日の夜半に汽車で戻ったとの報せを受けて、私は朝からごんを抱いて居た。もう直ぐ此の温もりも我が手を離れると思うと堪らない。私はNを恨んだ。呪った。我が家に着くまでに、自動車に轢かれてしまったらいいのだ。願い虚しく、Nは無事に我が家を訪れ、引き戸をトントンと叩く。 「申し。誰か。」 「はあい。」  チヨが快活に応えて出た。私は炬燵に座し、ごんを抱え、その身に頬を寄せている。  玄関で二言三言交わすと、Nは悠々居間へやって来た。 「やあ、桐堂。世話掛けたな。其奴(そやつ)はしつこいたちだから、仕事にならなかったろう。」  実際仕事にならなかったが、故は異なる。私は黙っていた。  Nは私が不自然な姿勢で身じろぎひとつしないのを妙に思った様子だが、懐にごんの居るのを見ると屈み込んだ。「ほれ、帰ろう。」  ごんは主人の声に応じて立ち上がり、腕を跨がんとする。私はつい訴えた。 「ごん。行かんでくれ。」  すると、ごんは立ち止まる。困った風に私を見る。 「何を言うとる?」Nは顔を顰め、またしても、「ほれ、権之助。帰るぞ。」と手を叩く。  再び足を踏み出さんとするごんへ私は縋りつき、 「ごん、私と居ようではないか。私の方が良き飼い主だろう?」などと云う。 「お前! どうしたんだ、一体。そんなに犬が好きなのか?」 「貴様は知らずに預けたのか。私が此の数週間、どの様な気持であったと思う。砂漠に水を託されて、飲まずに待てと言われた様なものだ。おいそれと返せるものか。」 「参ったな。」Nは帽子を脱いで嘆息した。「其れは悪かった。お前が然う迄飢えて居ようとは。だが、ならばなぜ飼わん?」 「そんなもの、家に犬など居ては、私の他の生活が立ち行かなくなるからだ。」  意味を取り兼ねる風のNへ、チヨが囁く。「構い通しで。他の事がお手につかないんです。」 「ならば仕方が無いだろう。潔く諦めて、さっさと愛犬を返してくれ。」 「そも、本当に愛犬か? こんな長いこと放って置くなど鬼の所業だ。ごんも悲しんでおる」 「桐堂!」Nは声を上げる。「願望で物を言うのはよせ。」  私は聞かぬふりで身を縮め、ごんの耳元をさすった。 「ごん、私の方が屹度(きっと)可愛がるから、うちの子にならんか? 健康を思えば限度はあるが、美味しいものも食べさせてやるから……」  と、其処へ、たんたんと、軽快な足音が階段を降りて来て、居間へ立った。三青君が、両の袖に腕を入れていたのを解いて、此方を見ながら伊達眼鏡を直す。 「どうなさったんです。修羅場の様ですね。」 「三青君か。きみ、桐堂に言って遣れ。子供の様に駄々を捏ねてないで、大人しく犬を返しなさいと。」 「成る程。状況は読めました。」三青君は肩を竦め、私の情けない様を眺むると、 「併し、N先生の下じゃ、ごんの情操教育に宜しく無いかも知れませんね。」と云う。 「三青君!」 「はあ、併し、現行法じゃあ犬ってのは私有財産ですから、先生がこのまま返さぬ様じゃ憲法いうところの所有権の侵害になっちまいますね。何方(どちら)がごんにとって良い飼い主かは存じませんが。」  滔々と云ったあと、三青君は再び袖に手を入れ、寒そうに肩を狭めつつ私の許へ近付くと、さっと綺麗に正座をした。 「先生。」と、云う。「大岡裁きですよ。」 「何?」  首を傾げたのは私だけでなかった。三青君はけれどあくまで私に、 「ごんの様子を見てご覧なさい。此奴は気のいい仔ですから、ほれ。先生とN先生の板挟みで困っています。ごんは先生も無下に出来ぬし、N先生も裏切れんのです。先生、ごんが可愛いなら、するべき事は決ってますよ。」  私は、ごんをじっと見た。ごんもまた私を見上げた。うるみがちの黒目はやはり私を一心に見ているが、楕円に白い眉が寄り、垂れ下がっている様にも見える。  私はごんをひとつ撫でた。ふたつ撫で、みっつ撫で、そうして、絞り出した。「お行き。」  ごんは迷う様に片足を上げた。私が頷くと、ト、と腕を跨ぎ、暫ししてNへ駆け寄って行く。 「全く……」ごんを抱き上げると、代わりの様にNは紙袋を置いた。 「女なら兎も角、まさか犬如きで斯様な始末が起るとは、誰が思うか。」 「言葉に気をつけ給え。」  私は滅多に吸わぬ煙草を卓から取り、火を点ける。 「私が堪えて居られる内にさっさと家を出るがいい。帰り着いたら遺言に、権之助の引き取り手は桐堂であると書くんだな。然うしたら、屹度殺してあげる。」 「遣り兼ねん……」  Nはまんざら冗談でも無い風に身慄いをして、そそくさと家を出て行った。確かに此方もまんざら冗談でないのだから、妥当な反応だ。 「其れはなんでしょう。」  三青君が云った。Nが置いて行った紙袋を引き寄せ、中の箱を取り出す。 「おや、また濡れ煎餅だ。気が利かない人ですね。どうせ遠出をしたのなら、東北土産を買って来りゃいいのに。」  吐き捨てる様な言いぶりからして、密かにあてにしていたようだ。食い意地の張った書生である。ごんのがまだ、行儀が良い。私は視線を下げ我が脚を見た。胡座に張った着流しに、薄茶の毛が、幾本かあった。

此の原稿を書くに当たって件の濡れ煎餅を摘んだ。行きに置いて行ったのと全く同じ代物だ。土産を貰っておいてなんだが、確かにあまり気が利かない。此れで良く女子(おなご)にもてていられる。  濡れ煎餅をぎゅっと押すと、其の湿った感触に権之助の鼻を思い出す。私はもう居ない温もりに寒さがいっそうつらく思われ、半纏をたぐって、ちびりと煎餅を齧る。茶が熱い。じき、年越しだ。


2022.12.13:ソヨゴ