『ビューティフル・インセクト』の、たぶん本編後。ちょっとした小話です。
「ねえ、ちょっと!」 背後から聞こえた声に、ちらと振り向く。待合のテラス席の向こう、店へ入ってすぐの受付で男女ひと組が揉めていた。鋭い声を発したのはドレスを着た女性のほうで、自分より幾分背の高い傍らの男を睨めあげている。男のほうはまったくの後ろ姿で表情は見えない。だが察するに、おそらくは、彼女の怒りに正面から取り合うつもりはないのだろう。億劫がっているような気配が、うなじのあたりから漂ってきている。 関わりのないことなのでエドワードはすぐ首を戻した。そのままスマートフォンを眺める。待ち人はエドワードの何倍も焦っていて、ひっきりなしにメッセージを入れてきていた。 いくら名のある伯爵家の当主でも、高速道路の不慮の事故まで避けて通れるはずがない。彼が渋滞に巻き込まれたのは今日という日の運命であるが、彼にそういう発想はないから、泰然自若としていられないのだ。しかし、SMSをいくら飛ばしたところで彼の車が早く着くでもなく、受け取る側は面倒である。それでもう十数通は返事をせずに無視している。 もしかすると彼はそれで、エドワードが怒っていると取り違えているかもしれないが、そんなことまでフォローしてやる義理はない。ただでさえ普段は着ない窮屈な服に辟易している、——エドワードはカーティスが仕立てた三つ揃えの首元をさする。王室御用達というホテルの庭園は、なるほど美しい眺めなのだろうが、そういったものに特段心が動くたちでもない。周りがどう見ているかはさておき、エドワード本人にすれば自分の存在は「場違い」だった。 「ちょっと、——エディ!」 すると突然、金切り声で名を呼ばれ、エドワードはまた振り返った。ちょうど男がうんざりした顔でエドワードのほうへ向かって来、後ろを一度も見ることなく通り過ぎていくところだった。目をやると、カウンターの前で女性がその背を睨んでいる。ぎゅっと握られた両の拳が、力の入れすぎで震えている。 長い黒髪に、黒のカクテルドレス。おおかたSNSで評判のデザートコースでも食べに来たのだろう。平時は腰までありそうな髪を大きく巻き、ふわりと広げている。化粧も丁寧にやったのか、今にも角が生えてきそうな形相でも崩れていない。なんにせよ彼女がこのために相当の手間をかけたのは確かだ。それをふいにされたのだから、憤怒の表情も仕方がない。 彼女はしばらく去っていく男を恨みがましく見ていたが、やがて諦めたように首を振り、カウンターのスタッフに言った。 「しょうがない。私一人で入ります」 「それは……」するとスタッフは口籠もった。「ご予約のコースはお二人で、ということを想定してご用意させていただくものです。おひとり様にご提供ということは、致しかねます。申し訳ありません」 「そんな——」 彼女は絶句し、今度は先ほどと似たような顔でスタッフに詰め寄る。「じゃあ、私、何も食べられないの? ここまで来て」 「大変、申し訳ないのですが……通常のメニューでしたらいくつかお選びいただけます」 「そんなの要らない!」彼女は憤りの声を上げた。だがそれは、エドワードの耳にはほとんど泣いているように聞こえた。「ここのコースを楽しみにしてやってきたのよ。コースでしか食べられないメニューがあるから来たんじゃない。なのに」 スタッフはさすが穏やかな表情を崩さずにいたが、内心どう思っているかは想像できる。何せここは「王室御用達」のホテルで、通常相手にしているのは社交界の住民のはずだ。庶民向けのサービスを始めてみたはいいものの、——だが、エドワードもそれ以上彼らに寄り添うつもりはない。金に困って手を出したなら、このくらいのトラブルは飲み込むべきだ。お高く止まってないで。 エドワードはいったん前を向き、少し考えて、スマートフォンを見た。新着メッセージが来ていて、いまだ車が遅々として進まないことを訴えている。なら最低でも九十分は猶予がある。エドワードは席を立った。 「お客様。申し訳ありませんが——」 口を開きかけたスタッフの前に立ち、目前に手を出す。唐突に視界を遮った掌に驚いたか、言葉を止めたスタッフへ告げる。 「俺が入る。二人ならいいんだろ」 彼女が顔を上げた。涙目で俯いていたから、隣へ来たのに気づかなかったらしい。 「あなた、誰」 「誰でもいいだろ」 「よくない。急に何?」 「一人じゃ入れないんだよな」エドワードは彼女を半ば無視してスタッフに訊いた。 「ええ、はい。しかし——」 「予約したのは〝エディ〟、だったよな?」 いかにも何か言いたげな、尖った気配が体の右側から伝わる。黙殺し、エドワードは財布を開いた。カーティスに持たされているブラックカードを取り出す。 「俺も〝エディ〟だ。構わないだろ」 スタッフはクレジットカードを受け取り、エドワードを見、またカードを見て、ひとつ頷く。 「ええ、確かに。……ウェブのご予約では、お名前は『エドワード』とだけありましたから」 どうやら愛称が被ったばかりではなかったようだ。返されたカードを受け取り財布にしまいつつ、ようやっと彼女を見やる。 「店のほうはいいと言っている。あんたはどうだ。気に入らないならやめておく、俺も人を待っているだけだ」 彼女は唇を噛みながら覗き上げるようにしていたが、正面からエドワードを見ると一瞬、硬直した。それから、ゆっくりと歯を離し、やや口を開けてエドワードを見上げる。 数秒が経った。おい、と言おうとしたところで、彼女は口を開く。 「——あなたでいい」 なんだ、その言い草は。思ったが、言わずに肩をすくめた。 「それでは、二名様でよろしいですね?」 スタッフがいくらかほっとした声で繋ぐ。エドワードが頷くと、別のスタッフがやってきて席へと案内し始めた。 足を踏み出したとき、後ろから、声が聞こえた。うまく聞き取れなかったが、ごめん、と言ったように思える。
エドワードは返事をしなかった。いかなる謝意も必要ない、——俺はただ、暇潰しがてら、タダ飯を食うというだけだ。
2023.06.23:ソヨゴ