真夜中が近くなってなお、息苦しいほどの暑気だ。川に面した駐車場で運転席のドアにもたれ、蔵未は首すじの汗を拭う。かろうじて、時折吹く風が、汗を少し冷ましてくれる。蔵未の背後には寝静まった団地が控えているだけだが、向かいの岸は繁華街で、真っ暗な川の水面に街の灯りが映っている。  こんな時間に、駐車場に——それも浮かれたアロハなんぞ着て立っていることが間抜けに思え、誰に見られているでもないのに蔵未は下を向いた。ビーサンを履いた足と、半パンゆえに剥き出しの脛が目に入ってくる。この暑さでは足首まである服を着る気にならないといえ、部屋着のような格好で外にいるのも恥ずかしく感じる。ファッションに興味はないが、世間体なら気になるのだ。  早く来いよ、と、悪態をつく。実際は口に出さなかったが、それでもその響きに、ひとり後頭部を掻く。  お互い、仕事が終わったあと、駐車場で待ち合わせて出発する手筈だった。朝のうちに荷物はもうトランクに放り込んであり、蔵未はいったん家に戻って今の格好に着替えている。だったら家で待ち合わせればいいだろうにというところだが、向こうはハナから旅行仕様の浮かれた服で出勤していて、家に戻る理由がないのだ。そもそも、駐車場に着くのはお互い似た頃になるはずで、遅れる連絡もないのだから、この待ち時間だってせいぜい十分程度のものだろう。  けれど、一人がもどかしい。自分が独りでいるなんて、当たり前のことだったのに。  一人が落ち着かない——その感覚は、彼とともにあることに慣れてしまう以前にあった、あの耐え難い孤独とは、明らかに違っていた。あの、今にも叫び出し、誰彼構わず縋りそうになる、……凍えた地表に取り残され、凍った指の痛みが二度と癒えないことに怯え続ける、あの感覚とは、ちっとも似つかない。  蔵未はもはや、温もりがこの場に、自分の近くにないことを、恐れる気持ちにはならない。ここに今いなくても、どこかにはちゃんといて、そしてすぐにも自分のもとへやってくることを、もう確信している。今の自分は待ち遠しい喜びを前に浮ついているだけ——そう考えるとなんて恥ずかしく、なんて、贅沢なのだろう。  遠くで、物音がした。ハッとして、蔵未は振り返る。  芥子粒ほどの小ささだが、どこか見覚えのあるシルエットが、ずっと先の歩道のうえで街灯の光を浴びていた。照らされては、薄闇に沈み、それを何度か繰り返したころ、とっくに顔がわかる大きさになった彼へ、蔵未は手を挙げる。彼もこちらに示すように手を挙げると、小走りになった。 「わりぃ。お待たせ」  こうして待ち人は、——沢霧は、あっさりと現れた。 「遅えよ」 「いや、蔵未が早えんじゃん? 俺時間通りに来たっしょ」 「知るか。約束の時間はどうあれ、俺が待ったのに変わりない」 「めちゃくちゃじゃねえ? 言ってること。まあ——」言いながら、手に持った何かを放ってくる。「お詫びってことで」  受け取って、確かめる。ビールのロング缶だ。見ると、彼は己のぶんか、炭酸の缶を開けていた。爽やかな音が立つ。 「おい」  彼が口をつける前に止める。不思議そうに目を向けた彼へ、缶を投げ返した。 「そっち、寄越せ」 「……は? だって——」 「あと、鍵」 「え」疑問に似た受け応えをしながら、すでにポケットを探っている。「いいの?」 「たまにはな。ほら、早く」  ゆるく投げられた鍵を受け取る。ボタンを押して解錠し、ドアを開いた。 「うわ、暑ッ」  声を上げた沢霧と、同じことを思った。日中の熱射に存分に焼かれた空気が、襲いかかってくる。 「だからお前が俺より先に着くべきだったんだ。鍵持ってんだから」 「そんなん言われたってさあ」沢霧は遅れてサイダーをこちらへ寄越した。「ホントなら着くの同時くらいしょ? エアコンつけて待つ時間ねえって」  それは、——まあ、そうかもしれない。だからと言って納得もしないが。  沢霧は車中の空気を掻き出すような仕草をしつつ、片手でビールのタブを引いた。溢れかけたのを慌てて口付け、すすり込んでから、美味そうに息をつく。 「やー、うれし。ほんとにいいの?」 「何が」 「運転」 「別にいいよ。最初からそのつもりだったし」 「それで、運転席のほういたわけね。なんでと思ったけど、謎が解けたわ」  屈託のない口ぶりだったが、蔵未は少し、バツが悪くなる。 「別に、……俺、運転が嫌いってわけじゃないけど」 「え、そなの? でも、いつもやんねえじゃん」 「それは」微かな苛立ちが蘇り、思わず眉をしかめた。「お前のガイドがロクでもねえからだよ」 「ええー?」 「今にも通り過ぎようって瞬間に『そこ右』とかさ……」 「なんか別の話してっと忘れちゃわない? ついうっかりさあ」 「それで何回遠回りのルートになったか数え切れない。お前が任せろっつーから任せてたんだぞ」 「ごめんって。まあそこ行くと、蔵未はガイド上手いよな」  そう——蔵未はスマホのマップで、道案内をするのが上手い。上手いというより、過剰に緊張するから、見落とさないでいられるというだけの話だが、とにかく沢霧のような失態は犯さない。よって蔵未は、合理的な役割分担として、沢霧に運転をさせ自身が助手席に座ることにした。不幸中の幸いで、沢霧は運転は上手い。 「あれ。じゃあ、いいの? ガイド役」  沢霧の素朴な問いに、そっけなく返す。 「いい。お前に頼らなくて済むよう、ルートは完全に覚えた」 「ひぇー」呑気にビールに口をつけ、沢霧は言う。「さすが院卒」 「バカにしてんのか? ぶん殴るぞ」 「なんでえ。いま褒めたんじゃん」 「関係ないだろ」車中が外気とほぼ変わらなくなったのを認め、蔵未は席に乗り込む。「院卒とこれとは」  まだ熱々のシートにうっすらうんざりしつつ、キーを差し込む。マヌケな自動音声が流れるなか、エアコンを全開にした。念のためカーナビにも目的地を打ち込むが、データが古いので当てにできない。それでも道を思い出すとっかかりにはなるだろう。  沢霧はシートベルトを締め、そわそわと、窓の外を見ている。 「どこ走んの?」 「せっかくだから、海沿い。出るまではどうせ高速だけど」 「いいねえ。窓開ける?」 「この気温じゃなあ」 「こっから二時間くらいだよなー。着いたらコンビニ寄るか」 「そういや、ホテルのチェックインとかは? 着くの深夜になるはずだけど」 「だーいじょーぶ。二十四時間のとこ」  軽く頷き、レバーを入れる。そのへん彼は抜かりない、自分よりよほどまともなくらいだ。久々に動かす車だが特に支障はなさそうで、蔵未は、アクセルに右足を置いた。  発車と同時に彼が笑う。「しゅっぱーつ」  タイヤが砂利を踏み、動き出した。

まずは表通りへ出るため、住宅街を抜けていく。ハンドルを操りながら、蔵未は横目に沢霧を見た——いつ見ても、どの瞬間にも、彼は記憶を上回ってくる。ふと目を逸らし、また向けるたび、彼は記憶より一段と美しい顔で、網膜を焼く。彼を見慣れることなんてたぶん一生ないだろう。  なのに蔵未は、彼が隣にいることに、すっかり慣れ切っている。  車が国道へ出た。沢霧はスマホで、車内に流すプレイリストを今まさに作成中らしい。画面の片隅には時間表示があり、こうしている間にも刻一刻と零時へ近づいていた。蔵未は、無言で思いめぐらす。  コイツ、分かってんのかな。自分が誕生日だってこと。  彼に限って、己の誕生日を忘れることがあると思えない。旅行の日付と重なっていればなおさら意識しているはずだ。しかし彼が蔵未から祝われることを期待しているかは、正直なところ、よく分からない。祝えばもちろん喜ぶだろうし、これまでも喜ばれてきたけど、だからと言って祝われることを望んでいるかと問われると、どうも違う気がするのだ。特にお祝いはなかったとしても、彼はがっかりしない気がする。  彼は、何が欲しいんだろう。自分は、何ができるんだろう。  彼の誕生日が来るたび、蔵未は自問自答している。彼に、足りないものはあるのか? 自分に埋められる箇所はあるのか。物欲は強いやつだから、あげたら喜びそうなものならいくらでも思いつく。でもそれは蔵未に買ってほしいわけでなく、ほっとけばそのうち自分で買うだろう。そう思うと、蔵未は自分が何をするべきか分からなくなる。自分が何をしても——しなくても、彼は満ち足りていて、なにひとつ、欠けていない気がするから。  そうして反対に、自分がもらってきたものを振り返り、慄いてしまう。これだけのものを受け取って、これだけの穴を、埋められてきたのに。  身を乗り出しても果てが見えない、深く暗く遠い谷底に、彼はずっと水をやってきた。注いだ先から流れ去り、決して満たされそうにない淵に、彼は平気で水を注いで、飽くこともなく繰り返した。やがて、流れ去るよりも早く彼の水は谷を埋め始め、ついには満たされた水が底の大地に染み込んで、誰の手も届かない場所に埋もれていた水脈を、探り出した。そして蔵未は、己に変化をもたらしたのと同じ泉を掘り当てられて、では自分は湧き出した水をどうしたらいいか、惑っている。だって彼には自前の泉があるのだし、水を渡して拒まれはしないが、それが必要とは思えない。  それとも——高速に乗りながら、蔵未はぼんやりと考える——愛情とかいうものは、そういうものじゃないのかもしれない。  彼がくれたのと同じように、自分も誰かに水を注いでやることが、今ならできるだろう。でも、自分のこの心に、尽きせぬ泉を湧かせているのは他ならぬ彼なのであって、彼を思うことなしにこの水は湧いてこないのだ。彼が——沢霧が自分に、愛を注ぎ続けることに全く頓着しなかった理由が、今は少しだけわかる。無限に湧いてくるのだからいくら使っても惜しくない。無駄にされようが、ものにならなかろうが、なくなることなどないんだから気にならないのだ、——なんてやつ!  そして同時に、蔵未は、彼が他の人間に水をやらないことを知っている。彼の泉は蔵未に向けてしか湧いてこない。だから今、満たされきった己にも彼は変わらず水をくれる。それが蔵未は嬉しいし、幸せで、……つまり、そういうことなのかもしれない。 「足りないからとか、欲しいとか、そういうものじゃないんだな」  感慨をこぼすと、何か喋っていた沢霧が片眉を上げた。 「は? 何が。えってかさ、さっきから俺の話聞いてる?」 「聞いてない。別のこと考えてた」 「マジかよ。えー、じゃあ最初から話すと——」 「その話はいい」蔵未は、ダッシュボードを目顔で指した。「そこ開けて」 「へ?」沢霧は視線をたどり、収納ボックスに手をかける。「ここ?」 「そう。開けて、中のやつ出して」  なんか入ってんの、と聞きながら、沢霧が蓋を手前に引く。ガコッと音がして、しばし沈黙があって、おもむろに沢霧は言う。 「え。誕プレ?」 「そう。おめでとう」  ちらと確認すると、沢霧は白い立方体をしっかりと手に持っていた。上質の紙箱で、一目でアクセサリーと分かる。 「え。開けていい?」 「いいけど、失くすなよ」 「これ俺の好きなところじゃん? 蔵未知ってたっけ?」 「うん。担当さん?とかいう人に聞いて、被らないやつちゃんと選んだ」  何の気無しに言ったところ、答えが返ってこなかった。怪訝に思って顔を見る。すぐに道路へ目を戻したが、彼の表情は「驚愕」だった。 「なんで知ってんの!?」 「いや……だって、お前宛てにショップからよくハガキ来てんじゃん。店舗も、名前も書いてあるし」 「ああ」そこまで言うと急に沢霧は力を抜いた。「そーいうこと……」 「なんだと思ったんだ」 「いやマジ、透視能力とかで心読まれてんのかと思って。そうじゃなくても千里眼とか。超怖かった」 「んなわけねえだろ……」  てっきり、尾行でもしたのかと疑われたかと思ったが、想像を超えてバカバカしい。 「じゃあ、俺が持ってないやつ確定なわけね? 気が利くぅ」  口笛でも吹きそうな調子で彼は箱を外しにかかった。天辺の空いた下部に、底辺の空いた上蓋を嵌め込んでいるタイプだが、作りの良い箱ゆえに、ぴっちりしていてなかなか抜けない。それでもなんとかぶち撒けもせず外した彼は、室内灯をつけた。デザインを確認し、また消灯する。 「ねえ」上蓋を被せる音がする。「俺、いま、めっちゃ嬉しい」 「そ」再び車外に目を慣らしながら、小さく返す。「よかった」 「ありがとう」  ああ、——蔵未はふいに、鼻がツンと痛むのを感じて、瞬きをした——まただ、ほら。何をしたって、俺のほうが、嬉しい。 「もしかしてさあ」  箱をバッグにしまったらしい沢霧が、何か問いかけてきた。耳を傾けると、彼は言う。 「車運転してくれたのも、誕プレってこと?」 「いや、……まあ。今日くらいは」 「へえー……ふぅーん?」 「おい。なんだよ?」  微妙なむず痒さに襲われ、つい苛立った調子で返す。沢霧はやはり意に介さず、得意げな流し目を、蔵未に向けた。 「俺、愛されてんね?」  言葉が、なかった。無言のままに高速を走り、そっと呟く。 「……そりゃ、そうだろ」

出口を示す看板が、頭上を通り過ぎていく。同じ看板を見ていた彼が、もう海じゃん、と、嬉しそうに言った。


2024.08.06:ソヨゴ

沢霧の誕生日SSです。二人は同棲してるようですが、買ったマンションなのかもね。