殺人を連想させる描写、性暴力やそれに付随する不快な表現を含みます。閲覧の際はご留意ください。
ぼくは騙されない。どれほど魅惑的で、うつくしく、清純に装っていても、存在そのものの邪悪さはごまかせやしないのだ。ほら、今も花の咲くように、ぼくに微笑みかけてくる——悪魔! いつかその正体を暴き出し、必ず衆目に晒してみせる。 ぼくがいくら睨んでも、彼はやわらかに笑ったままだ。 「ライアン」そうして、名まで呼んでくる。「そこ、眩しい? カーテン閉めようか」 魔物め! その穢れた口で、ぼくの名前を呼ぶんじゃない。 ぼくは悪魔から目を逸らし、ポケットの中の十字架を握った——そうすると少し、落ち着くことができる。彼は一、二度ぼくの名を確かめるように呼んだけど、ぼくがそっぽを向いていると、無駄な試みをやめたらしい。ややあって、他の人の声がし、彼がそちらを向いたのが応える声でわかった。 「お前さ」 隣の席に座るジョーンズが、呆れきった顔でいう。 「なんで、無視したりするんだよ? お前が醜男(ぶおとこ)だからって、今さら嫉妬でもしてんのか?」 まさか。嫉妬なんてするわけがない——しかしどう説明しても、ジョーンズは理解しないだろう。なにせクラスの人間はみな、すっかり彼に騙されている。けれど、敬虔なる神の徒として、ぼくは最後まで抗うつもりだ。 「おまえは悪魔の恐ろしさを知らないんだ」 それでも、そうひとこと返すと、 「悪魔? なんの話だよ」 ジョーンズは、眉を大きく歪めた。
ぼくだって最初から悪魔だと見抜けたわけじゃない。はじめの頃はみんなのように、彼のうつくしさにやられていた。つややかな黒髪と、神秘的な青い瞳。過不足なく調った愛らしい顔立ちが、だれに対しても甘やかに、それでいて涼やかに微笑み、その笑顔を向けられた者は思わず胸を押さえてしまう。成績優秀、品行方正で、人の陰口はけして言わない。独りでいる者を気遣い、困った者がいれば助け、何かや誰かに苛立ったようなところは見たことがない。愚かにも、天使そのものだと思っていた。なんて清らかで、穢れ無い人—— だが、じきに、なにかがおかしいと気づいた。 ぼくは、常に神を心に、正しく在ろうと心掛けてきたつもりだ。たとえ人がぼくを指差して、醜男、不潔と忌み嫌い、あたかも邪心の塊のように扱ってくるのだとしても、ぼくは神の道に背くことは一度もしてこなかった。だいたい不潔というのだって、見た目を理由に勝手なことを言い立てているだけだ。洗濯もシャワーも、歯のフロスも、ぼくはおろそかになんかしていない。でも、それは別にいい。だれかに評価されるためでなく、ただ善く生きるためにすることだ。 そう、ぼくは、欲の誘惑に揺らいだことは、これまでになかった。なのに、彼に出会ってから、ぼくの心はひどく動揺した。 彼と話すたび、彼と接するたび——残酷な妄想が、急に頭をよぎるのだ。彼のほっそりした手首を掴み、その口を塞いでどこか引き摺り込んでしまいたい——とても口にはできないようなこと、恐ろしくて残虐で許されはしないようなこと、暴力的で卑猥で浅はかで悍ましいこと極まりない、そんな欲求が、湧いて出てくる。手を替え、品を替え、執拗に。 ぼくは、この罪に慄いた。なんてことだ! 毎晩、毎晩、学園内の教会に駆け込み、ひとり十字架にひざまずいて祈る。どうか、この愚かで罪深い魂を救いたまえ。不浄な欲に支配された哀れな罪人を正してください——だがしかし、神は沈黙した。欲を消し去ってくれることもなく、一方で、ぼくを罰しもしない。 それで気づいた。この苦しみこそ、まさしく神の試練ではないかと。 聖書の内容を、思い出した。悪魔は、邪な気持ちを煽り、人を罪の道に堕とすという。だからうつくしい姿をとったり、蠱惑的に振る舞ったりするのだ。彼だって、きっとそうだ。これまで神の導きに沿って正しく生きてきたはずのぼくが、なんだってそんな悍ましいことを心に浮かべたりするだろう? 悪魔の仕業なんだ。彼は、本当は邪悪な魔物で、ぼくに罪を犯させようと誘惑しているに違いない。 ひとたび相手が悪魔だとわかると、すべての行動が腑に落ちる。あんなにだれからも好かれる人が、ぼくのような嫌われ者に優しくする理由なんかないのに、どうも妙だとは思っていたのだ。ぼくを誘惑し、勘違いさせ、野蛮な獣じみた凶行に駆り立てようと画策して、彼はぼくに話しかけたり、気遣ったりしたに違いない。一度など、ぼくが外で転んで、痛みにうずくまっていたら、寮の中からそれを見つけて、わざわざ絆創膏を持ってきてくれた。ぼくはその日、傘を忘れて、急いで帰ろうとしたところすっ転んだわけなのだけど、ぼくが傘を持っていないので心配になったと言っていた——そんなわけがない! ぼくにそんなふうに優しくなんて——なんの理由もなく、なんの意味もなく、なんの打算もなく優しさを向けるなんてことが、あるはずがない。 以来、心に防壁を築き、彼の侵入を防がんと努力している毎日だ。愛らしい顔にも、真っ青な瞳にも、もうずいぶんと慣れたと思う。しかし——何よりぼくが抗しがたく感じるのは、あの声だ。彼の声を聞くたびに、心地よくひんやりした風が耳を撫ぜるような心地がする。正体を知ってなお、心の揺れは免れない。 だがぼくは、神の子のひとり。魔の魅力には、けして負けない。
クリスマスが近づいていた。普段は一人前を気取り、すかしたことを言っているやつらも、内心では久々に家族に会うのを心待ちにしている。かくいうぼくもそのひとり、十二月のはじまった頃から、母の用意してくれるクリスマスディナーが待ち遠しくてたまらなかった。加えて、寮でも一足先に、クリスマスパーティがある。感動するほど美味しくもないが、ならではのメニューが食べられると思うと多少心も浮き立つ。 とはいえ、生徒の何人かは、寮に居残ることを選ぶ。ある夜、寝る前に水を飲もうとキッチンへ降りて行こうとするとき、廊下の窓に彼がいるのを認めた。彼はこちらに背を向けて、窓枠に両腕を置き、外を見ている風情だった。 ぼくから話しかける理由なんてない。無視をして通り過ぎ、階段を降りかけた。ところが、軽く空を見上げるような彼のその後ろ姿が、妙に頭に残っていて、服の袖を引っ張ってくる。冬の制服のセーターを着た、ぼくが通ったのにも気づかない様子の、頼りなげな背中—— 半ばやけになって階段を登った。窓辺へ戻り、声をかける。 「何してるの?」 彼は、はっとした様子で振り向いた。あまり、見たことのない顔だった。 「ライアン……」それからゆっくりと、微笑みを作る。「ちょっと、考え事」 「もう寝たほうがいいんじゃないか。ぼくは、水飲んで寝るよ」 「ありがとう。そうだね、寒くなってきたし……」 ぼくは思わず顔を強張らせ、唇を結んだ。この、声。だれもいない廊下に、静かな響きを落とす声は、まるで世界にふたりだけのような——今、この瞬間を、他に知る人はいないという強い感じを、ぼくに与えた。この夜のひとときは、ぼくと彼だけが共有する、ひそやかな時間であると——世界中ほかのだれにも、ぼくらを邪魔できないのだと。 「ライアンは、家に帰る?」 柔らかな、ひんやりとした、それでいて少し湿ったような、甘い声が耳を打った。ぼくは、口を結んだまま、ひとつ頷く。 「そっか。そうだよね」 「……君は?」 「僕は」そこで言葉を切り、彼は浅くうつむいた。「……まだ、決めてない」 ぼくは、意外に思った。普段の振る舞いからは、「家に帰らない」理由があるとはあまり想像できなかったから。それでつい、尋ねてしまう。 「……どうして?」 うつむいたまま、彼は黙った。沈黙が静寂を生み、静寂がぼくに、彼を見つめさせる。きめ細やかで白い肌、寒さで少し赤くなった頬。うつくしいカーブを描く、どこか透き通って感じるまつ毛。わずかに伏せた瞼越しの、どこまでも、青い瞳。 「……怖いんだ」と、彼はいう。「家に帰るの、……少しだけ」 そして、顔を上げた。ぼくを見る。大きくて、真っ青な、その淵へ落ちてしまいそうな瞳が。 「ライアンが……残ってくれたら、いいのに」 次の瞬間、ぼくの脳裏に、激しい波が訪れた。 今すぐ——今すぐ抱き締めて、その唇にしゃぶりつき——床へ押し倒し、襟に手を——力任せに引きちぎり、服をはだける、華奢な鎖骨が見える——嫌がる彼を抑え込み、ベルトに手をかけ、無理矢理—— 靴が、床に擦れて鳴った。その音で、ぼくは我に返った。 踏み出しかけた足を引き、じりじりと後ずさる。そのまま彼を睨みつけると、彼はひどく傷ついたような顔をした。そして、それは瞬きの間に、険しい顔つきへ変貌する。 「どうして、冷たくするの?」彼は形良い唇をわななかせていた。「なんでひどい態度を取るの?」 「やめろ」ぼくは吐き捨てる。「ぼくに、近寄るな。穢らわしい」 「どういう意味?」 問いかけた彼の声には、はっきり怒りが籠もっていた。 「僕が何かした? 仲良くしてたのに、急に無視したり、睨んできたり、僕には君のことがわからない。いったい、僕の何が悪いの? だれかが僕の悪い噂でもした? でも僕は、人に恥じるようなことなんかしていない。いったい、何が問題なの? 何が、『穢らわしい』わけ?」 ぼくは、再びの驚きに打たれ、——情けないことに思考が止まった。およそ、ぼくが知る限り、彼がこんなふうに語気を強めることなどは、今までになかった。言い訳も、反論もできず、ぼくはそのまま逃げ帰る。 彼は追いかけてこなかった。駆け足でベッドへ潜り、頭から被って縮こまる。目を閉じていても心臓がバクバクと搏ち、とても眠れない。 ぼくは悪いことをしたのだろうか?——彼は確かに怒っていた——惑う心に、去ったはずの情景が蘇ってくる。何があったのか思い出せと言わんばかりに——そうだ! だってほら、彼と話をしただけで、あんな悍ましい妄想がよぎる。あの瞬間、ぼくは確かに、彼を蹂躙すること以外考えていなかった。彼の自由を奪い、踏み荒らし、ほしいままにすることを脳が焼けるほど欲していた——彼が嫌がり、怯え、泣いて、震える声で懇願するのを夢想した。お願い、やめてと、ぼくの名前を呼ぶ声が聞きたかった——そのほかは、何もかも頭から消し飛んだ。ママの作るディナーも、神も、何一つ、ぼくを引き留めなかった。 心底、慄えた。ぼくの大事なものを、すべて捨てさせるほどの恐ろしい力に——彼の魔力に。彼に寮に残ってほしいといわれたあのとき、ぼくはいったい何を考えてしまったのだろう? たぶん、ぼくは、背徳の許しを得たような気持ちになってしまったのだ。ぼくを選んで声をかけるなら、一緒に過ごしたいなどというなら、今この場でぼくに好き勝手されたって、構わないはずだ—— 気づけば、朝になっていた。脳裏に絶えず襲い来る衝動に苦悶するうちに、夜が明けてしまっていた。 このままではおかしくなる。いずれは耐えきれなくなって、悍ましい罪を犯してしまう。 そうなる前に、やらなければ。神の子であり続けるために、悪魔には、立ち向かわないと、いけない。
「様子が変だとは思ってたよ。でもあんなこと、すると思わないだろ?」
コートを着てくるべきだったかもしれない。冬の夜風は凍てついて、吹き抜けるたび身震いする。吐いた息が白くなり、何気なく見上げた空に星が瞬いていた。冷たく澄んだ紺色に、星はいつもより冴えて見える。 今日はクリスマスパーティだ。七面鳥を食べ、アップルサイダーを飲んで、ぼくも楽しいディナーを過ごした。寮では今もパーティが続いているが、ぼくは抜け出し、建物の裏の林にいる。振り返ると、木々の向こうに灯りのついた寮が見える。 ぼくは再び前を向き、彼がやってくるのを待った。視界に広がっているのは、月光に浮かぶ深い林だ。遠くなるにつれ暗くなり、全き闇に溶け込んでいる。 背後で、落ち葉を踏む音がした。ぼくはまだ、振り返らない。 「ライアン?」 彼だ、——他にいるわけがない。わかっていても、ひそかに息をつく。 「こんなところで。僕に、何の用?」 その声音はほんのりとまだ怒りを引きずっていて、ぼくはかえって安心する。彼が怒りを見せているあいだ、あの妄想が鳴りを潜めていたことに、このまえ気づいたのだ。どこまで効果があるものか確かなことは言えないが、少なからず脅威を遠ざけていられる気がする。 「ごめん。呼び出したりして」 ぼくは振り返らないままそう答えた。彼の顔を見ては、どんな魔術をかけられるかしれない。振り返るのは最後の最後、決定的な瞬間だけ——そう思うと急に手が震え、ぼくは咄嗟にセーターの中に隠したものを確かめる。硬質な感触に、安堵する。 「……べつに、いいけど。でも君は、僕に近寄ってほしくないんじゃなかったっけ?」 皮肉な調子だった。彼でもこういう言い方をするということに、また驚く。僕はもしかして彼のことをまるで知らないでいるのでは——一瞬、頭に浮かんだことは、その一瞬で消えていく。 「謝ろうと思ったんだ。だから、プレゼントを用意した」 すると、少し間があった。それから、声が丸くなる。 「そう。なんだか、物で誤魔化そうとしているみたいで、感心しないな」言いつつ、彼は歩み寄ってくる。「でも、気持ちは受け止める。僕だって、君を許したいし」 声はもう、すぐそばにある。吐息を感じる気がするほど。 「ねえ、ずっと背中を向けて。そんなに大きなプレゼントなの?」 ぼくは、静かにセーターを手繰り——ボトムスに挟んであったナイフを抜き出す。 「うん。目を閉じて。ぼくがいいと言うまで、ずっと」 答えはなかった。けれど気配で、彼が言うとおりにしている気がした。 深く、息を吸う。そして、吸い切った瞬間に止める。 素早く振り返り、ぼくは彼を刺した。何も目に映らないうちに、——ほんとうに目を閉じていたのかも、わからないままに。
あっけないほど手応えがなかった。なんの抵抗もなく、刃は彼の胸に吸い込まれた。