おそらくキルフェアリー署時空のエディカトです。
ほっそりした指先がデスクを一定のテンポで叩く。熟練のカリグラファーがすっとひとすじ引いたような眉はややひそめられていて、口元はきゅっと結ばれ、左手の書類はたわんでいる——力が入りすぎているのだ。彼が眺めているのはとうに解決した事件の捜査資料で(なんてことを言うと隠された秘密が動き出しそうな気配がするが、悲しいことにしょぼい窃盗だ)、よくよく観察していると、実は彼の目が全く文面を追っていないということに気づく。要するに、彼は上の空で、何か別の考え事に気を取られているわけだ。 僕はたっぷり甘くしたカフェオレを片手に持って、彼のデスクへ歩いていく。さりげなく足音を立て彼の注意を引きながら、デスクの端に腰掛けて、カフェオレを差し出す。 「難しい顔してるね?」 声をかけると、彼が僕を見上げた。青すぎるほど青い瞳が不安げに揺れている。幼いころ、今よりもっとこぼれんばかりに大きかった瞳もまた同じように僕を見上げ、そのたびに妙な苛立ちを覚えたことを思い出す。それはくすぐったさに似たもので、たぶん、彼に何かしてあげたくなる自分自身をむず痒がっていたのだ。今は、相応の諦めとともにコントロールする術を学んだ。彼にその気はあるようでなく、こっちが上手くやるしかない。 「いや……」彼はかつてとは違う落ち着いた声音に、それでも少し動揺を忍ばせて言った。「大したことじゃない」 「そうは言ってもねえ。さっきからずうっとその古い資料を凝視しちゃってさ、でも爪はトントンしてるし、焦点が紙に合ってないし、なんか別の気掛かりがあるんだろうと思ってね。ってか、整頓進まなくない?」 「悪い。表に出ていたか」彼はそこで書類を置き、ため息をついた。「まったくもう……」 「困ってるなら話は聞くよ? 解決できるかは別だけど」 冗談めかして告げると、彼は幾分フラットな顔に戻ってまた僕を見上げた。不安げな様子は消えた代わりに、ほんのり不満げな色がついている。 「ほんとうに、くだらないんだけど。朝からずっと気になっていて……」 ほう——と、僕は身構えた。彼は少々神経質なところがあり、僅かな違和感とか、ほんの些細な異物感にずっと足を取られてしまって、解消するまでイライラし続けるきらいがある。そんでまた、その違和感とか異物感とかは正直彼の感じ方であって、他の人間にどうしてあげることもできない場合が多い。本人もそれが分かっているから、イライラしてしまう自分にさらにイライラしたりして、なかなか大変だ。 「なんとなく、出勤してから、ずっと感じているんだ」 「うん」 「ほんとうに、多分、気のせいなんだが……」 「うんうん」 「……いや、やっぱり、あまりにどうでもいい……」 「まあ、まあ。君にとっては気になるんでしょう? 言うだけ言ってみたら」 「そう?」 ——今度は、幼いころに似たずるい声だった。どこか甘やかな、透き通った響き……たぶん、わざとじゃないからなあ。 「なんとなく、だけど」ここまで言ってまだためらいがちに、彼は言った。「なにか忘れてる気がして」 「うん?」 当の僕が他のことに気を取られていたせいで、彼の言葉がうまく届かなかった。彼は気にするふうもなく、自分の正面に目を移し、考え込む。 「なにか忘れてる……そこそこ大事なことな気がして。でも、それがなにか思い出せない……」 今度こそ僕は聞き届け、そして——呆れた。僕にはそう、彼がなにを忘れているかいっぺんで分かったからだ。だけどそれを伝えてやる気はしなかった。面白いので、しばらく泳がせてやろう。 「あらまあ。それは気になるね」僕は自分用にも淹れてあったコーヒーを口に運ぶ。「いったいなんだろ」 「最初は、鍵かと思ったんだ。だけどうちはオートロックだし……」彼はチェアに大きくもたれ、口元に手を置いた。「鍵本体はちゃんとバッグに入っていた。ドアを閉めたのは確かだから、鍵がかかっていないはずはない。よしんば機械的な問題で施錠できていなかったとして、それを俺が『なにか忘れている』と認知するはずがない。だろ?」 僕はマグで口元を隠したまま、目元で笑んで応える。 「だとすると、なにか約束事とか……会議の日付は確認したが、カレンダーに記録してある分は全て記憶していた。でもたとえば、カレンダーに移すことさえ忘れていたならお手上げだ。どうしたものかな……もしかして、今も自分に待ちぼうけを食らってる人がいるかもしれないと考え出すと、気が気じゃない」 「そういう場合はなんらかの手段で君に連絡を取るんじゃない?」 「向こうがそうできない事態に陥っているかもしれないじゃないか?」 「めちゃくちゃ運が悪けりゃね。確率的には低いでしょう」 「そう、……それはそうだ。俺としても、あまりこの可能性は考慮したくない。気が滅入る」 言うと、彼は肘掛けに両腕を預け、片腕で頬杖をついた。頬がつぶれるのに従って、押し出されるようにため息が出る。つくづく難儀なひとだ——それにしても、カレンダーを確認していたとは。 「他に忘れてしまいそうなことというと、なんだと思う? あとで調べようと思っていた事柄を失念しているだとか、商品の発売日とか、キャンペーンの開始日あるいは終了日、そのあたりかとも思うんだが。さっぱり心当たりがない。こんなことを続けているうち、忘れていることさえ忘れてしまってなにも気づかなくなるのかもしれない。俺も歳かな」 「そりゃ、僕らも二十代と同じようにはいかないけどさ。先輩方に怒られるぜ」 「あくまで自分自身の変化だ。微細であっても気にはなる」 「君の異様な記憶力は特に衰えを感じないね。ど忘れや失念なんて、昔から多少あったでしょう」 フォローのようなからかいのような言葉を投げると、彼は渋面になった。こちらの理屈はよくわかるが、感覚的に納得し難い、そんなところだろう。そもそも、理にかなった話で落ち着けるならこのような不安に陥っていない。つまり僕には彼の気持ちはいまいち理解できないってこと。 「ま、なんとか気を逸らして。ほんとうにやばい事態ならそのうち思い出すよ」 「それ、ほんとうにめちゃくちゃまずくなってから思い出すってことにならないか?」 「それでも仕方ないじゃない? 今思い出せないんだからさ! ところで、退勤後の用事は?」 「え? 今日? 特に何もないけど……」 「そう? じゃ、久々にどっか行こうよ。適当に予約しておくからさ」 「……まあ。急な事件がなけりゃ……」 今日はちょうど事件が途絶え、課内全員で書類整理をしていたのだった。僕はもちろんうまいこと作業をサボっているのだが、彼はいの一番にごっちゃごっちゃのダンボールを持ち出し、きっちりファイリングし始めた。たぶん、これは勤勉さというより、普段から惨状が気になっていたのに違いない。 「オーケイ。キルフェアリー市民の遵法意識に幸あれ」 言い置き、僕は傍を離れた。背中に少し視線を感じる。ちょっと、妙だと思ったかな?……答え合わせは退勤後だ。
退勤後、物言いたげな彼に取り合わず、僕は予約済みのレストランへと歩き始めた。黙ってついてくる背後から、問いただしたいオーラを感じる。昼間はさも今思いついたかのように予約を口にしたが、目的のレストランは二ヶ月前に押さえてある。街並みが相応の高級感を湛えるにつれ、背後の疑念がいや増していく。 だが僕は彼を全く振り返らずに話し続けた。歌手の話題、フットボールの話題、スポーツ選手の不祥事の話題、投げ込まれるチラシを放置しすぎて役所の通知を見落とした話、こないだ自動掃除機が家具の隙間に詰まっていたのをあとで救い出そうと思ってそのまま一週間放置した話。僕のプライベートに関するしょうもない話題にだけは、「なんで平気でいられるんだ?」と呆れたような応えが返った。そうこうするうち目的地につき、僕は店先で足を止める。 「じゃ、入ろう。いいかな?」 「その……」彼はドアの向こうに控えるマネージャーをチラと認めて、「もちろん、支障はないんだけど。こんな店、昨日の今日で押さえられる場所じゃないだろう」 「どうかな。僕は運がいいから」 「道中も思っていたけれど、ふと思い立って予約する気軽な店のある場所じゃない。もしかして——」 ようやく気づいたか——そう思って彼のほうを見ると、その顔は蒼白だった。ちょっとの驚きののち、失笑する。 「大丈夫。君にここを予約したことなんて告げていないから」 「ほんとうに? もし仮に君との約束を僕が忘れていたとしたら、不義理以前に僕はいよいよ自分の頭が心配だよ」 「そんなわけがないでしょう。まあでも、そうだね。君は一個、結構でかいことを忘れてるぜ」 軽いウインクをし、踵を返す。ドアへと歩き出した僕を追いかけながら彼は、「ちょっと待て! やっぱり君、なにを忘れてるか気づいてたんだな」とお怒りだったが、ドアを開く頃には黙った。僕はにこやかに名を告げて、ふたり、席へと通してもらう。 食事は決まったコースだった。僕には味の良し悪しが正直よく分からないんだけど、正面の彼はそこそこ感心した顔をしていたので、レベルは高いんだろう(彼は自身が調理するとなると残念ながら壊滅的だが、舌に関してはさすが〝青い血〟の流れるお人というところだ)。なに、自分では判断つかないから、人の噂とレポを頼りに決めた店だが、上々で何より。 そろそろ食後のデザートという頃、店内が暗くなった。周囲が少しざわめいて、やがて、温かな歓声が広がる。 暗くなった店内に、ろうそくの光が映えていた。カートは、それをしばらく見つめ、少し明るくなった顔で僕に何事か話そうとした。でも僕の表情に気づき、その顔を凍らせる。そして、ようやく、ついに、——……思い出した。 彼が、ゆっくりと額に手をやる。僕は笑いをくつくつ堪え、ろうそくの光——ケーキに目を向ける。 「本日は、お誕生日とのことで」やってきたウエイターが芝居がかった調子で言った。「特別なデザートをご用意しました」 「ああ……」彼は情けない声をあげ、ゆるゆると面を上げた。「なんてことだ。ここまでマヌケとは……」 「それは僕の台詞だけどなあ」僕は頬杖をついて促す。「ほら、火。吹き消して」 彼は頷き、深く息を吸った。そうして勢いよく吹かれた息が、一瞬で灯火を消す。——本気を出しすぎなんじゃないかな? こんなときまで『最善』でなくても。 店内が明るくなり、拍手が起こった。きまり悪そうにそれらに応え、ウエイターが去るのを待って、彼はぼやいた。 「僕ってやつは。なんで気がつかないかな?」 「だからそれは僕の台詞だって。ここまで来ないとわかんないとはね」 「忘れること自体はさして珍しい話じゃないと思うけど。君がレストランを予約していた、そうとわかった時点でなぜ……」 頭を振って嘆きながらも彼はフォークを入れていた。そのまま金粉の煌めくオペラを口に運ぶと、頬を綻ばせる。 「いいショコラだ」 「そりゃよかった」 「君も食べる?」 「僕はいらないよ。そうだ、プレゼント渡していい?」 「もちろん。……何を選んだの?」 唇からフォークを抜いて、彼は上目に僕を見た。からかうような、甘えるような、期待に満ちた目。この瞳、……彼のこの目をがっかりさせたくなくて、僕は小さな頃からずいぶん振り回されてきたと思う。僕は「勝手な期待」ってやつが、この世で一番嫌いなのに。 「覚えてる? 去年のホリデーに、僕ら予算を決めたでしょう」もちろんこれは彼が馬鹿げた額を簡単に使っちまうからだ。「その範囲でいいものがないか、ま、僕なりに探してみて、……」 コートから、平たい箱を取り出す。上にかけたリボンは真新しいが、箱の古びた外見で彼はなんとなくピンときたらしい。受け取って、こちらを窺う。どうぞと手で示すと彼は、リボンの端をするりと引いた。 箱を開け、中のケースを取り出す。深い紺のベルベットで覆われたジュエリーケースだ。こちらも年季が入っていて、蝶番が少し硬い。音を立てないよう気をつけながら、彼がそれを、ゆっくりと開く。 「……これ——」 彼の深い青の瞳にぱあっと星が灯るのを見て、僕は、心底安堵した。 「星座盤?」 「そう。機械仕掛けのペンダントらしい。そこの、」僕はケースの中に収まった、ペンダントの上部を指差す。「レリーフの中にリューズが隠れてる。動く小鳥がいるはずだ、回すと、ゼンマイが巻かれるらしい」 彼は言われた通りに指で探り、繊細なレリーフの中から動く小鳥を見つけ出した。チチチ、チチチ、とゼンマイが巻かれ、彼が指先をはなすと、歯車を鳴らして動き出す。 「……きれい」 カチカチ回る星座盤を見つめ、彼はほうっと息を吐いた。リューズ代わりの小鳥は、ゆっくり羽を広げては閉じ、星座の動きに連動している。小さなペンダントながら、おそらく星の部分にはちゃんと鉱石が使われている。見て何かわかるほど、僕はジュエリーに詳しくないが。 「マーケットで見つけたの?」 「うん。ちょっと出かけたときに、たまたま蚤の市があってね。なんとなく眺めていたら、それを見つけた」 「ふふ」彼は僕に目を移して笑う。「君にも、ロマンが分かるようになった?」 「まぁさか! 相変わらずさ。でも、君の好きそうなものは分かる」 ペンダントに耳を近づけていた彼は、そのまま笑みを深める。 「——ずるい言い方」 僕は、大人っぽく笑い、ワインに逃げる手段をとった。 「……僕も君みたく、君を喜ばせてみたいのに」動きの止まったペンダントを丁寧にしまうと、彼は口を尖らす。「君って、なにされたら嬉しい?」 「うーん……日常生活において、あんまり嬉しいとか悲しいとか気にすることがないからね」 「……想像できない……」途方に暮れたようなつぶやき。「どういうことさ。どうしたらいいの?」 「君が僕にあげたいものをくれたらいいよ。君が僕にあげたいものをあげてご満悦なのを、眺めてられたら、僕は満足なんだ」 彼は片眉をひそめ、冗談交じりに訝しむような顔をした。おそらくは、僕が気取ったセリフを吐いて煙に巻いていると思ったんだろう。でも僕は実際に、そのほかに欲しいものはない。僕が人生において一番満足を覚える瞬間は、恥ずかしいことに、情けないことに、彼が喜んでいる時なのだ。もうずっと、ガキの頃から。 「改めて」僕は静かに告げる。「誕生日、おめでとう。カート」 彼は、ケースを胸に抱き、嬉しそうに応える。 「ありがとう」
頭を抱えそうになるのを、俺は必死で堪えていた。その顔を見るためになら、なんだってできてしまう——まったく。
2024.03.30:ソヨゴ
カーティスのお誕生日話でした。おめでとう、カート。ちなみにエディが特に予約の件を話してなかったのは、カートの誕生日にお祝いをするのは恒例行事だったからです(むしろ当日に祝えない場合にお互い連絡している)。